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公開研究会「『対称性』の扉を開く」:第3回「神話と感覚の人類学」レポート

2016/05/25

2016年1月24日、明治大学グローバルホールにて、公開研究会「『対称性』の扉を開く」の第3回目が開催されました。今回は国立民族学博物館の近藤宏先生と、島根大学の出口顕先生をお招きし、人類学の視点から神話の「対称性」についてお話しいただきました。

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近藤宏先生/身体形態論としての神話

―パナマ東部先住民エンベラにおける「動物的身体」―

近藤先生は文化人類学から見た、中南米パナマの先住民「エンベラ族」の神話的観念を取り上げます。

『神話論理』再考

アメリカ先住民の研究上、レヴィ=ストロースが1950年代から約30年間に執筆した『神話論理』4巻、「小神話論理」として知られる著作3つは不可欠です。

著者レヴィ=ストロースの研究は神話という対象との一体化を目指しているため、その研究自体が「ひとつの神話である」と自ら語っています。その難解さ故に著者自身も議論の対象とされており、それは探求されるべきですが、別の道として南米先住民研究への『神話論理』の活用を近藤先生は試みます。まず、この著作の基本が再考されます。

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レヴィ=ストロースの分析は複数の神話を比較しつつ、各意味の対照や反転の関係を立てています。一見単純な反復ですが、神話Aが神話Bの変形である、では終わらず、神話Aは神話Cの一部分の変形でもある、という連続は非常に複雑です。こうして神話の三次元的モデルが作られました。

なぜ神話はそうでないと読めないのか? ある神話の由来が別の神話にある、または別の神話で説明されるためです。レヴィ=ストロースの神話(論)は、神話構造を神話で説明する(神話外ではしない)、内側からの理解だとフランスのM・エナフは言います。レヴィ=ストロースの論は、象徴的思考を可能にする装置としての神話を示す、と。

しかし彼の論は、人間精神一般に通じる興味深い「象徴的装置」である一方、先住民の思考に酷似してもいます。

 

身体論:「食」

南米先住民の特徴の一つは、「味覚のコード」であり(コードは規則・規定の意)、「食べ方」は文化的かつ全体的に重要です。

……コードのうちのひとつが特権的な位置を占めている。それは食物の食べ方に関する―したがって味覚の―コードである。……私は、先住民の哲学において料理が占める真に本質的な場を理解し始めた。料理は自然から文化への移行を示すのみならず、料理により、料理を通して、人間の条件がそのすべての属性を含めて定義されており、議論の余地なくもっとも自然であると思われる―死ぬことのような―属性ですらそこに含められているのである。

(レヴィ=ストロース『生のものと火にかけたもの』2006)

一例はジェ族の神話、「火の起源」です。かつて料理の火を所有していたジャガーは調理された肉を食べ、人間は生肉を食べていたが、人間がジャガーから火を奪い逆転し、世界は今の食生活になったとされます。

薫製

つまり、「食」の違いが存在(身体)の違いを決めるのです。例えば腐肉を好む亀は、ジャガーやワニとは異なる生き物になります。トゥクナ族の神話では、妻の好物が甲虫であるために妻の本性がカエルであると暴露されます(「トゥクナ・狩人モンキマネとその妻たち」、『食卓作法の起源』M354)。

 

身体論:「衣」

もう一つ、神話上で存在を定義付けるのは「服」(衣装・装い)です。レヴィ=ストロースによれば、「火の起源」(食習慣)の役割は「服飾の起源」(服飾品)のそれと同等です。

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彼以降の南米低地先住民の研究では、そうした身体論は「アニミズム」(または「パースペクティヴィズム」)とされます。アニミズムでは本質的に、異なる生物達は異なる体を持つ反面、精神は同じです。すなわち精神(魂)は多様な存在によって同等に共有される「融和装置」であり、対して身体は同一性を持つ存在を多様化する「差異化装置」です。

デスコラ曰くアニミズムの神話では、最初動物は人間的で、そこから固有の身体的性質を獲得します。この身体的性質とは動物的身体の形や装備品であり、デスコラは「装備品一式」と呼び、彼と並ぶ身体論研究の先駆者ヴィヴェイロス・デ・カストロは、「ウェット・スーツ」の類と呼んでいます。これを「脱衣」すると人間化します。

加えて「パースペクティヴィズム」では、身体の違いが世界観の違いを決めます。例えばジャガーと人間は、取って置きの飲み物をマニオク酒(一種の発酵酒)と捉える点で類似性(類似している魂)がある反面、ジャガーは人間の血をマニオク酒と捉えています。

 

「身体」という差異化装置

食習慣や服飾品は「身体」に結びついており、その各部位は差異をもたらします(例えばある神話では、一つの身体から別れた部位が異なる天体等に転生します)。こうした身体論の神話の例は「水の起源」です。

エンベラ族の語り手によっては、「水の起源」で動物が衣服(装備品一式)を着ていることもあります。例えばキツツキの同類の鳥、赤い羽毛で頭部が覆われているハナジロエボシゲラは、人間時には赤い布を頭に巻いていました。オオハシ人間はワユコ(鮮やかな赤や黄色の布を使う褌)を着ていましたが、オオハシには腹の色が鮮やかな種がいます。

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彼らは人間の姿ですが、そのまま説明もなく動物的行動をします。カストロ曰くこのメタモルフォーゼ(変形・変身・転身)はプロセス(過程)ではなく、行き来なのです。

神話に固有な質的多様性の領域が生じてくる。例えば、神話におけるジャガーが、ジャガーのかたちをとった人間的な情態の塊であるのか、人間のかたちをとった猫科の情態の塊であるのか、という問いは厳密には決定不能である。というのも、神話的なメタモルフォーゼとは……異質的な情態の内包的なかさなりあいである。神話は歴史ではない。

(カストロ『食人の形而上学』2015)

このように神話の人物は両義的で、人間かつ動物です。なお「水の起源」神話では、創造主によって身体的服飾が身体化され、彼らは現在の動物の姿に変えられたとされますが、他の神話ではその姿は常時固定ではありません。

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例えば「ユキサギの物語」では、見事に漁をする肌の白い美女が川に居たが、岸にある服を着るとユキサギに変身するので、独身の男は女が川に潜る間に羽毛(服)を隠し、女は飛べなくなった、と語られます。「ペッカリーの主となった男」では、皮を脱いだペッカリー(イノシシに近い動物)は人です。羽毛や皮などの動物的身体は衣服のように着脱可能であり、着衣は「特殊な『身体の諸力』を活性化する」、つまり種特有の行動を促します。

 

神話外の神話的身体

最後に近藤先生は、神話外における神話的変身を論じます。エンベラ族は身体に様々な模様を描き、これを総称して「オンブリガーダ」と言います。使うのはジェニパ―エンベラ語でキパラ[Kipara]・アカネ科の植物―の果汁です(ル・クレジオ 2010)。この身体論では、骨や目玉のような動物の身体部位とジェニパの混合物を体に塗ることで、動物の能力を自分に移せます。

以下はその例です―クビカワセミという漁が上手い鳥の目玉をすり潰し、ジェニパと混ぜ合わせ目の周りに塗ると、この鳥の視力を得られる。コンゴウクイナは森の中を長く歩き回る特徴があり、足の骨をすり潰しジェニパと混ぜて塗るとそのように歩ける。鹿の中足骨(特に鹿を連想させる部位)によって、人間は森を速く走れる。ジャガーやオオアリクイの爪によって優れた弓手になる、骨は(伝統的な)喧嘩に役立つ腕力を得る、ナマケモノのように長時間枝にぶら下がれる腕力を得る、等々。

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これら「オンブリガーダ」は、「オンブリーゴ」(スペイン語のヘソ)に由来するようです。非先住民(黒人奴隷の子孫だというアフロ系集団で、エンベラ族付近に住んだ人々)は、動物・植物・鉱物から取った物質を新生児のヘソに塗ることを「オンブリガーダ」と呼びます。

つまり、オンブリガーダは動物の身体(色々な能力の集合体)を分解し、使える部分を利用して人間の体を組み直し変えるという、分解・再構成のプロセスです。この神話的変身は幻想に留まらず、エンベラ族の行動にも結びついています。

 

肉体的ブリコラージュ

オンブリガーダと、レヴィ=ストロースの言う「ブリコラージュ」は平行した考え方です。ブリコラージュとは、有り合わせから発明する日曜大工のような活動です。これは、利用可能性(潜在的な資材性)を持つ有限的集合の組み直しであり、その有限的集合は、エンベラ族では動物的・文化的形質に相当します。

つまり「オンブリガーダ」は、「肉体的ブリコラージュ」です。それは限定的ながら、神話以後を生きる人体にも異なる力を内包し得ることを示すと近藤先生は述べます。

 

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出口顯先生/駆け引きの神話論理

―傷つきやすい渡し守からブリコラージュ、アフォーダンスへ―

出口先生は、これまで軽視されてきた構造主義の側面を取り上げます。切り口は『神話論理』第三巻(『食卓作法の起源』)の、「傷つきやすい渡し守」です。

渡し守との「駆け引き」

その例としてレヴィ=ストロースの『月の裏側』は、「因幡の白兎」を示します。以下はあらすじです。

白ウサギがワニに言う。自分とお前の一族の数比べをしよう。一族の全員を集めてこの島から北の岬まで並び伏せてくれ。その背の上を踏み歩いて数を数えよう。ワニは言われたとおりにするのだが、白ウサギは地面に着く直前にだましたことを伝えると、最後に伏していたワニが白ウサギを捕まえて着物をすっかりはぎ取ってしまう。

(中村啓信訳注『新板 古事記』、2009、50頁)

6ワニは、嘘に怒る敏感な渡し守であるため、「傷つきやすい渡し守」と見なされています。この渡し守は、『神話論理』でもM769(ラコタ族)の型の神話として例示されます。要点は次のくだりです―無人島から帰りたい男が、湖面から現れた巨大な角を持つ大きな怪物の角に掴まり、陸へ進んでもらう。怪物は、雷雲が見えたら教えてくれと頼んでいたが、雲は見えないと男は嘘をつき、男が陸地に降りると怪物は雷に打たれ死ぬ(レヴィ=ストロース『裸の人 2』、2010、642頁)。この怪物は、雷に「傷つきやすい」渡し守です。

こうした渡し守への嘘は、「駆け引き」なのです。M503(マンダン族)では、兄弟が角のあるヘビに対して、報酬(食料)を提示して自分たちに川を渡らせるよう頼むという「駆け引き」をします。しかし報酬の一部は、ヘビを騙す偽物です(『食卓作法の起源』、525頁)。

駆け引きは、節度(行われた仕事に見合った分だけ支払いをする)と放縦=節度のなさ(騙し)とのあいだの振る舞い、あるいはそのあいだの現物での支払いから甘い言葉による支払い、そして嘘、侮辱から叩くことまでの漸次的変化(つまり移行)をしめしている。

(『食卓作法の起源』、525頁。括弧内は出口先生の補足)

この観点では「因幡の白兎」のワニの怒りは、ウサギの嘘・侮辱により「傷ついた」ことが原因です。

 

ダイナミックな「駆け引き」の構造

こうした「駆け引き」は、今まで等閑視されてきたか、構造主義になじまないと思われてきたと出口先生は言います。言わばこの主題は単なる静態的構造やゲームの規則とされ、体系やゲームを生きる行為者(主体)の活動と無関係に思われてきたのですが、そうとは限りません。

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その例は、北米先住民ヒダツァ族の鷲狩りです(レヴィ=ストロース『野生の思考』第2章「トーテム的分類の論理」61-2頁)。手順は次の通り―鷲狩りをする人間は、まず地面に穴を掘り、その中に横たわって身を潜める。上には、事前に仕留めて血の付いたヘラジカの肉を縛り付けたウサギ(またはヘラジカ)を罠として置く。ウサギはまるで皮が裂け(内臓が露出し)死んでいるように見える。鷲が騙されてウサギを捕獲しようと地上に降りた時、ウサギの下に潜んでいた人間が即座に起き上がり鷲を捕獲する。

ここには鷲と人間の「駆け引き」がありますが、注意すべきは「構造」が「駆け引き」を成立させる点です。すなわち、二項対立(鷲対人間・天空対地上・舞い降りる対起き上がる)と、二項の媒介者(ウサギ・疑似餌・食料)という「構造」があって初めて、人間は企みを実行できるのです。換言すれば、知略を伴う「ダイナミックな動き」は、静態的構造(二項対立と媒介者)の中に既にあります。

どんなにダイナミックなものにみえようと、反構造やカオスに向かう運動性もじっさいには……形式性の内部にあると考えなければならないのだ。

(中沢新一「持続する『時』微分する『時』」『象徴人類学』、1984、69頁)

構造のプログラムは元より運動性を含み、出口先生曰く、行為者による自由で能動的な「駆け引き」とは、行為者の自主性を保存したがる側の幻想です。

 

ブリコラージュに見る「駆け引き」

本来「駆け引き」はレヴィ=ストロースの構造主義に属しており、そもそも「駆け引き」は彼の『野生の思考』の冒頭にある「ブリコラージュ」にも見出だせます。ブリコラージュとは「あらゆる種類の手間仕事をして生計を立てること、応急につくりかえたり、修繕したりすること」(宮川淳『紙片と眼差とのあいだに』1974、14頁)であり、文明や科学的思考に懐柔されていない「野生の思考」の比喩です。

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動詞のブリコレ(bricoler)は、古くは球技・玉つき・狩猟・馬術に用いられ、非本来的な偶発運動(ボールが跳ね返る、犬が迷う、馬が障害物を避けて直線からそれる等)を指しました。そしてブリコラージュをする者「ブリコルール」(bricoleur 器用人)は、玄人とは違い、有り合わせの道具材料を用いて自分で製作します(『野生の思考』、23頁)。

ブリコラージュにおける「資材性」(潜在的有用性)とは、「もの」の中にある新たな役割です。それは当初の用途から離れており、他のものとの関係の中で見出されます。その例はM625(スノホミッシ)です(『裸の人 1』。詳細はHermann Haeberlin (1924) “Mythology of Puget Sound”, Journal of American Folklore 37: 422-425)。ここでは渡し守として鶴が登場しますが、飛行せず、地上に居る時の細長い足と広げた羽が強調され、「橋」の役割を果たします。つまりスノホミッシ族は、飛ばない鶴の潜在的有用性を見出しています。

とはいえブリコラージュであるため、全てのものに潜在的有用性が見つかる訳ではなく、ブリコルールは制限内でものから隠れた意味を引き出そうとします。またはレヴィ=ストロース流には、意味がものからやって来ることを待つと言う方が正確かもしれません。というのも「意味」は、ブリコルールと「もの」との関係の中に見出される(または生成する)からです。

 

ブリコラージュ/知的アフォーダンス

すなわちブリコラージュとは、ブリコルールと「もの」との「駆け引き」であり、「ブリコラージュ」は生態心理学でいう「アフォーダンス」の類似物、または「知的アフォーダンス」なのではないかと出口先生は論じます。「アフォーダンス」とは、環境(対象)が生物に行動可能性を与える関係性です。「アフォーダンス」の提唱者はこう述べています。

陸地の表面がほぼ水平(傾斜しておらず)で、平坦(凹凸がなく)で、十分な広がり(動物の大きさに対して)をもっていて、その材質が堅い(動物の体重に比して)ならば、その表面は支える(support)ことをアフォードする。それは、支える物の面であり、我々は、それを土台、地面、あるいは床と呼ぶ。それは、その上に立つことができるものであり四足動物や二足動物に直立の姿勢をゆるす。

(ジェームズ・ギブソン『生態学的視覚論:ヒトの知覚世界を探る』
古崎敬・古崎愛子・辻敬一郎・村瀬旻訳、1985、137頁。)

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つまり「アフォーダンス」とは、環境に実在している「潜在的意味」です(人間が独自に考案した意味とは別種)。個体はアフォーダンスを環境に見出し、個体の群れの活動を支えるリソース(資源・資材・資力)になっています(佐々木正人『知性はどこに生まれるか:ダーウィンとアフォーダンス』1996、64頁)。

適当な大きさと重さをもった細長い対象は、振り回すことをアフォードする。もし打ったり、叩いたりするために用いられるときには、それはクラブ(club)かつち(hammer)である。もしそれが手の届かないところにあるバナナを引き寄せるために、柵の後ろにいるチンパンジーによって用いられるならば、それはくま手(rake)の一種である。

(ギブソン『生態学的視覚論』1986、144頁。)

アフォーダンスは、行為によって対象(環境)から新たな意味という可能性を引き出そうとする、対象との「駆け引き」です。ブリコラージュとアフォーダンスは、対象との関係性の中で対象の潜在的意味を見出そうとする点で共通しており、ブリコラージュはアフォーダンスを知覚した上で成立するとも言えます。

 

ブリコラージュが結ぶ知性と感覚

なお、アフォーダンスはmanufacture(製作)の語源が示すように、手作業や手の感覚と繋がっています(『生態学的視覚論』、142頁)。ブリコラージュは神話性があり、「手」は必須ではないにせよ、「もの」がaffordする行為を(無自覚的にせよ)見出す点はアフォーダンスと同様です。例えば絶壁の岩は「障害」であり、「歩行」をaffordしませんが、絶壁と絶壁との隙間やその谷底はアフォーダンスがあります。

アフォーダンス的「駆け引き」の例は、北アメリカ先住民のM375(スヌクォルミ)―「打ち合う岩(シュンプレガデス)」系統の神話です。「打ち合う岩」は、世界の果てにある水上の揺れ動く二つの岩で、遅い通行者を挟み潰すのですが、アオカケスという女性は二つの岩に漁網を被せて開いたままにし、この世に鮭をもたらしました(『裸の人 1』。詳細はHaeberlin前掲書、p. 372)。この話は冒頭の鷲と狩人のように、二項対立(人対岩・開対閉・通過可能対通過不能)と、二項の媒介者(漁網)という構造があります。「野生の思考」における知性と感覚の統合とは、「傷つきやすい渡し守」に象徴されるブリコラージュとして理解できます。

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ギブソンに影響されたインゴルドの『環境の知覚』は、感性に対する知性の側に立つレヴィ=ストロースは環境と主体を対立的に捉えていると述べますが、ブリコラージュ/知的アフォーダンスを踏まえると、これは必ずしも正しくありません。レヴィ=ストロースやギブソンにおいて、ブリコルールが自分の元へ意味が来るのを待つ時、意味は人間と環境(「もの」)との間にあります。かつてミシェル・ド・セルトーの影響下、カルチュラル・スタディーズの「ブリコラージュ」は、主体が反権力的に意味をずらす戦略の意でしたが、そのような狭められたブリコラージュの理解は回避できると出口先生は述べました。

 

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鼎談:神話に潜む対称性の知性

以下は近藤先生、出口先生、中沢所長、コーディネーターの石倉敏明さんによる鼎談の模様です。

普遍的な構造―自然科学からのブリコラージュ

今回はフィールドワークの成果が盛り込まれ、新しい人類学を予期できる回だったと石倉さんは述べます(「新しい人類学」とは例えば、コールマンのトリックスター理論による、ハッカー集団「アノニマス」の研究等)。中沢所長は、今回の発表が「新しさ」をレヴィ=ストロースから取り出したと同時に、「新しさ」という表現が危うさをも伴うと見ています。例えば出口先生のテーマ「駆け引き」は、ある意味「トリックスター」(道化)や「狡猾な知性」ですが、それはまず動物にあります。一例は、煙幕で襲撃・逃走するイカやタコです。ギリシャ・ローマの古典文学では、人間の狡猾な知性は動物のそれの模倣であり、鷲狩りという「駆け引き」も、トリックで相手を騙すチョウチンアンコウのような構造が元です。

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中沢所長の研究の中心は、物質領域(生物領域)と感情領域(人間領域)を結び付けることだと言います。この主題は「新しい」とかつて認識されましたが、レヴィ=ストロースはそれをも『神話論理』の最終章に著述していました―構造主義の元は言語学のみならず、画家のデューラーやゲーテのメタモルフォーゼに表れたような生物学でもある、と。人間は意味・記号によって概念を分類し構造を作りますが、構造化は前頭葉以前の段階で始まっています。これは『神話論理』の執筆開始ごろの生物学で既に言及され始めたことで、例えば視覚の場合、まず明暗や色等の荒い分類作業は視神経の先端のニューロンが処理します。すなわち言語や文化に見られる構造は、既にものの領域(物質世界)に存在しています。これが主題であり、今はその発展に務めていると言います。

したがって、ブリコラージュ(知的アフォーダンス)が「もの」と思考を繋ぐという考え方に中沢所長は賛同します。レヴィ=ストロースが愛読した科学雑誌『サイエンティフィック・アメリカン』での生物学者ジャコブによれば、進化はブリコラージュです―ニューロンは単純生物から継承されていますが、ニューロンが可塑的に手持ちの遺伝子を組み替えることで進化は発生します。

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ここまでがレヴィ=ストロースが最晩年に考えていた構造主義だと中沢所長は解しています。であれば、大本の構造主義内に「新しい人類学」があり、その意味では新旧はありません。石倉さんは、「新しい」の次についての議論が人類学界で不十分であり、レヴィ=ストロースの論―非科学的世界観の科学への接続―が継承されねばならないと続けました。出口先生は狡猾な知性と関連して、レヴィ=ストロースの「アメーバの譬え話」と『悲しき熱帯』を挙げます。前者は、社会性アメーバは群れを作るが共食い寸前でやめる、これが人食い禁止の原型だという話であり、また後者はニューロンや視神経への言及があり、これらはブリコラージュの概念で研究できます。それを踏まえると、特に日本で「新しい人類学」の存在論的革命が持て囃される一方、日本はレヴィ=ストロースをあまり理解してこなかった、人間が構造主義的なのは自然が構造的だからではないか、と出口先生は言います。左翼の影響下でカルチュラル・スタディーズ全盛期では、レヴィ=ストロースは古いとされていました。しかし最近出現したからといって、一概に新しくはないと近藤先生は述べます。デスコラやカストロの身体論も、『神話論理』の中に見出だせます。

 

種々に共通する「対称性」

様々な問題が対称性人類学において結ばれていると近藤先生は言い、出口先生は、対称性(人間と自然の連関)を存在論的に考える人は、一層ユクスキュルの「環世界」やハイデッガーの存在論を踏まえるべきと見込んでいます。近藤先生と出口先生は、自然(科学)と文化を非対称性とする枠組みの再考を提言しました。

中沢所長は、「対称性」の奥行きをあらためて強調します。対称性とは、存在論やヘーゲルの絶対精神、さらにはニューロンの自己組織変化の原動力になる知性です。つまり限界のある接合様式しか持たないニューロンは、感覚世界に向けられていると非対称的なカテゴリー(思考方法)を作っていくが、それを自分で変えていく知性が働いた時、新しい次のカテゴリーが現れる、その原動力になるのが「対称性」であり、それが偶然に人間や神話の中に現れていると言います。

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自らを乗り越えて変えていく力―『雪片曲線論』での「フラクタル」―が「対称性」という言葉に発展していったきっかけを出口先生が問うと、中沢所長はエヴァリスト・ガロアだと返答しました。現代の数学には、ガロアから発展した「圏論」(category theory)があります。実は『神話論理』第四巻の「フィナーレ」に、あなたの行っているのは圏論だとある数学者から言われたとあります。圏論では、構造の反転・移動・他の情報をカテゴリーから持ってくる関手(functor)の働きがあり、変形を行っている関手は導来関手(derived functor)と呼びます。数学は様々な構造の関係をそのように理論化しており、所長にとって一番導きの糸になっているそうです。

現代数学で論じられる事柄が、文字化されてない神話にあるのはとてつもない発見であり、  それを人類学者は理解する必要があると石倉さんは言います。今日は南米先住民とブリコラージュ(知的アフォーダンス)の問題が出てきましたが、これに通じる話があります。16世紀の粉挽き屋メノッキオは、牛乳が腐りチーズになり、蛆が湧いた過程から世界が生成されていく、と語った記録があります。つまり―『雪片曲線論』が示したように―異なる各分野で同じ主題が起こっています。石倉さんは、神話に表現された「もの」と人間との対称性が様々な形で提起されたと述べ、研究会は締めくくられました。

 

宇宙的食物網

 

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