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第2回東京大学海洋教育フォーラム講演「海洋アースダイバーの挑戦」レポート

2015/09/15

2015年7月24日(金)、東京大学本郷キャンパスで開催された第2回全国海洋教育フォーラムにおいて、中沢所長が講演「海洋アースダイバーの挑戦」を行いました。所長と東京大学海洋教育促進センターが5月に行った渋谷を中心としたフィールドワークの模様とあわせて、その模様をレポートします。

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第一部:フィールドワーク報告「海洋アースダイバーの試み」

海洋アースダイバーと海洋教育

講演に先立ち、東京大学海洋アライアンス海洋教育促進研究センターの茅根創先生と田口康大先生により、2015年5月に行われた海洋アースダイバー・フィールドワークの模様が報告されました。

海洋アースダイバーとは、これまで自然科学の領域で扱われていた海洋や地形の問題と、人間の歴史や神話などといった人文科学系の学問の領域とを新しいレベルで統一することができないだろうかという試みです。今回のフィールドワークでは、実際に駒場東大前から渋谷・明治神宮までを歩くことで、地形と人びとの暮らしや文化とがどのように影響しあってきたのかを読み解いていくことが目的とされました。同時に、参加者を主に高校生とすることで、人文科学と自然科学の両観点から日本の原点を解き明かそうとする海洋アースダイバーという構想が、教育プログラムにおいてどのように展開可能であるのかを模索する巡検ともなりました。

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茅根さんや田口さんがすすめている海洋教育の試みは、「海と人との共生」をテーマに掲げています。そのような海洋教育にとっては、海と人びとの暮らしの間の影響関係を探る所長の海洋アースダイバー研究は、非常に示唆に富むものであるといいます。

 

アースダイブするフィールドワーク

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フィールドワークは、駒場東大前を出発点に始まりました。アースダイバーにとって欠かせないのが、縄文海進期という海水面が急上昇した時代の地形と、現在の地形とを照らし合わせたアースダイバーマップです。アースダイバーマップ(右図参照)をみてみると、地図の紫の部分はかつて水中、湿地であったことがわかってきます。今回のフィールドワークは、今歩いているところが、かつては水中だったのか、それとも陸だったのかなどということを確認しながら進めていきました。そのようにして実際に歩いてみると、今でも渋谷周辺の土地は、非常に高低差があることがわかってきます。

地学的な視点からいうと、東京は台地と下町、それから谷からなっています。先述したアースダイバーマップの青い部分は、地学用語で沖積低地と呼ばれるところで、脆弱な泥からなる軟弱な地盤の土地です。今回の巡検では、台地と沖積低地との関係を地学的な観点と人文的な観点の両方からとらえなおしてみることが主眼でした。

フィールドワークは、現場での解説と議論を行いながら、駒場キャンパス周辺をめぐった後、昼食時には茅根さんによるランチタイムセミナー(地球の公転軌道と地軸の傾きの変化による、海水面の上昇や低下についての講義)を行い、渋谷方面にまで足を進めてゆきました。

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出発点の駒場は、目黒川の支流と渋谷川の谷筋からなる台地です。今でも東京大学駒場キャンパス内にある一二郎池やグラウンドのあたりや、ケンネル田圃に、その面影をみることができます。ここで重要なのは、沖積低地というのは元は水田として使われ、人びとは台地の上に暮らしていたということだと茅根さんは説明します。今では高級住宅地として有名な松濤の地も、渋谷川の谷筋は湿地や沼地で(松濤公園の池はその面影です)水田として使われており、6屋敷が広がっていたのは台地だといいます。同じ松濤であっても、いわゆる高級住宅街と下町とが混在しており、松濤からつながる神泉の谷は、かつて横穴式の墓地として使われていました。

 

このような土地を実際に歩いた時、参加者の高校生は次のような感想を残しています。

「ある場所での人間の暮らしが、その場所の地形によって違っていて、今でもその違いが目に見える形で残っていることがわかった」。

「現在、崖になっている場所は、水の流れによってのもので、過去の川の名残であるということは斬新だった」。

 

海洋教育の意義

茅根さんは、海洋アースダイバーに基づく海洋教育の試みが、自然災害との関わりのうえで重要なものになると考えています。自然科学的な見地から沖積低地が脆弱だということを言い続けていても、自然災害に関するリテラシーが低いままだということを茅根さんは感じていました。例えば、陸前高田の津波の被害や、昨年起こった広島の土砂災害などは、その土地の脆弱さを地学者らが訴えていたにもかかわらず起こってしまった災害でした。一方で、同じ土地でも神社など古くからの聖地がある場所は被害を免れたり、神話・伝承のなかにかつての災害の記憶が止められていたりしたことは、災害における人文知の重要性を再確認するきっかけになったともいえます。

自然科学のリテラシーは、安全な日常生活を送るためには非常に重要なものです、そもそも、私たちの生活は、地形をはじめとした自然知と密接な結びつきを持っていました。その結びつきが切り離され、生活から自然知が失われた結果、私たちは自然災害の苛烈さに見舞われているともいえます。自然科学のリテラシーを高めるためにも、人文知との結びつきを深めた海洋教育の促進に意義があるのではないかという結論が提示され、フィールドワークの報告は終わりました。

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第二部:中沢所長講演「海洋アースダイバーの挑戦」

ワノフスキー『火山と神話』とアウエハント『鯰絵』

所長は先日、ロシア人のアレサンドル・ワノフスキーが書いた『火山と神話』という本に出会いました。ワノフスキーは、世紀末のロシアで革命家を志すも、のちに革命運動から離脱し、シェイクスピア研究に従事しながら日本に永住したという不思議な経歴の人物です。レーニンとは年少時代からの友であり、革命理論に関する論文もいくつか書いていました。ワノフスキーは、精神疾患の発作を治療するために、1919年に日本に渡ってきたのですが、その日本に彼は大変感動したのだといいます。それは、革命とは人間の精神構造と自然構造とを統一する試みであるべきだと考えていた彼の理想の国家の完成形が、すでに日本にあることを発見したからでした。

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ワノフスキーは、伊豆の大島で、不思議なヴィジョンに出会います。それは、東京に大きな地震が起こるというものです。ワノフスキーの警告を真に受ける者は誰もいませんでしたが、その翌月、関東大震災が起こったのでした。この出来事をふまえ、ワノフスキーは、日本列島は火山と地震が深く結びついた土地であり、それが日本の文化形態と一体となっているのだと確信するのです。この着想をもとに執筆されたのが、『火山と神話』という本でした。

『火山と神話』は、自然科学的な見地から日本の古代神話を読み解こうとした著作です。この試みは、神話を研究している日本の学者たちには受け入れられませんでした。なぜなら、彼らの関心は人文知だけであり、そこに自然知が入り込むことを認めなかったからです。しかし、哲学者の和辻哲郎が『風土』という著作を著してから、ワノフスキーのこの著作も見直されるようになりました。

ワノフスキーのように日本列島の地理的組成と日本文化の関係に着目した人に、オランダの文化人類学者コーネリウス・アウエハントがいます。アウエハントは、江戸時代の安政の大地震の際に流行った鯰絵の研究をとおして、鯰絵の構造が古代神話の構造と同じものであることに着目し、日本文化が、地震に見舞われやすい日本列島の組成に大きく影響を受けたものであるということを指摘しました。

このような研究は、人文知と自然知を統合した研究の先駆けであるといえます。所長が取り組んでいる海洋アースダイバーも、そのような研究を受け継ぎ、日本の歴史を見直してみようという試みです。

 

日本列島にやってきた人びと

日本列島に初めてやってきたのは、日本がまだ大陸と地続きである時代に移動してきた前期旧石器人であると考えられています。旧石器時代は、旧人が属する前期旧石器時代と、新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)が属する後期旧石器時代とに分かれます。両者は、石器を作り出す技術は大差ないものの、脳の構造に違いがあります。ネアンデルタール人に代表される旧人は、私たちのような新人と異なり、宗教や芸術を持っていませんでした。日本では現在、旧石器時代の研究が滞っていますが、日本列島にはこの前期旧石器時代が存在していただろうと所長は考えています。

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次に日本にやってきたのは、南方の海洋性の民族です。彼らは、今からおよそ1万200〜300年前に、かつて存在していたスンダランドという大陸(インドネシアやニューギニアのあたりに存在していたと考えられている)から海を渡ってやってきたとされています。新石器を用い、航海技術を操り、大陸の海岸沿いに移動を続けて日本に入ってきた彼らは、用いていた土器にちなんで縄文人と呼ばれています。この人びとはまず現在の鹿児島に入り、縄文時代と呼ばれている一大文化を形成していきました。縄文人は、各地に今の浅間神社にみられる「ヒモロギ」の原型となる宗教的な祭祀場をつくっています。それは、当時流れた溶岩の突端部分につくられていました。このようにしてみると、ワノフスキーが考えたように、火山噴火と地震が頻繁に起こる日本列島の自然と日本文化とは、深い関わりを持っているのだということができます。

日本列島に火山が多く、地震が頻発するのは、プレートの構造によるものであることが現在わかっています。そしてこれは、日本列島に住み着いた前期旧石器人、縄文人、そしてその後に日本にやってきた、水田農耕を行う後期新石器人の文化に深く影響を及ぼしています。日本史を考えるときに、日本がプレート上に形成された列島に住み着いた人びとの国であるという視点は、欠かせないものであると所長は考えます。

 

倭人文化の発展と地形の関係

以上にみてきたように、日本列島は、太平洋側のプレートが日本海側のプレートに潜り込むようにして成り立った地形です。そのため、太平洋側の土地は盛り上がり、逆に日本海側の土地は沈降しています。このような地形は、倭人文化の発展に大きな影響を与えていると所長は述べます。

土水

倭人の活躍した弥生時代とは、水田農耕を行う新石器時代のことです。狩猟採集の生活が中心であった縄文時代の日本に、稲作の技術をもった人びとが入り込んできたのは、2900年ほど前であると考えられています。彼らは、漢人から「倭人」と呼ばれていました。中国の歴史書によれば、「倭人」とは揚子江河口の海岸部に住む半農半漁の人びとのことを指しており、この人びとが海を渡って日本へやってきて、稲作の技術を日本にもたらしたのだと推定されています。しかし、日本列島において稲作りは、そうすぐに上手くいったわけではありませんでした。なぜなら、倭人が日本にもたらした稲作を行うには、ラグーンのような「潟」の地形を必要としたからです。

そこで、対馬を経由して北部九州にまず上陸した倭人らはラグーンを探して移動していきました。前述したように、日本海側は土地が沈降する傾向にあり、ラグーンがつくられやすい地形でした。そのため、倭人らは日本海沿いに移動していき、出雲や越といった地域で稲作は発展していきました。なかでも出雲は、ヤマト王権が発生する以前に、日本という国の原国家を形成していたと考えられています。このように、日本の古い文化を探る場合、日本海側という地域がとても重要な存在であることが、プレート・テクトニクスの理論との照合により明らかとなってきます。

新潟

 

縄文・倭人の信仰形態

こうした視点は、海岸縁や川のほとりに神社がなぜ分布しているのかといった問題にもつながってくると所長は述べます。倭人文化とは、端的に言ってしまえば、水田モノカルチャーを行う新石器人の文化です(いわゆる弥生文化と称される)。人間の能力と言う点では、縄文人と倭人とは本質的な違いはほとんどなく、彼らの信仰形態もほとんど類似したものでした。それでは、彼らの信仰とはいったいどのようなものだったのでしょうか。それは、倭人の信仰形態を探ることで明らかになってくるだろうと中沢所長は考えます。

民俗学者の折口信夫は、『古代研究』という本のなかで(折口がここで「古代」として想定しているのは、「倭人」の文化のことであると考えられます)、古代の人びとが、海岸部の突端や、海に突き出した半島状のいわゆる舌状台地と呼ばれる地形を大事にしていたと述べています。彼らは、海の彼方に自分たちの故郷が存在し、死後自分たちの魂はそこへ戻っていき、そこからまた、自分たちの世界へ新しい生命がやってくるのだと考えていました。このような考え方は、縄文人も同じであっただろうと所長は考えます。

日本海側には、多くの巨大な縄文遺跡があります。海岸部から人間の胎児を想起させる石のインスタレーション(寺地遺跡)や子宮を思わせる環状木柱列(真脇遺跡、チカモリ遺跡など)が発見され、そこでは何らかの儀式が行われていたのではないかと推測されています。また、彼らは海の彼方から神々を迎え入れる儀式を行っていました。出雲大社で行われている神迎神事がその名残であると考えられていますが、その神事を見てみるとわかるように、彼らが神々として祀ったのはヘビでした。とくに、セグロウミヘビというヘビを龍蛇神として祀るのですが、セグロウミヘビを祀る習俗というのは、沖縄から秋田にかけて広い範囲で見ることができます。

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こうした縄文人の信仰形態は、かたちを変えて、倭人にも表れていました。弥生時代につくられるようになった古墳が川岸などの水辺に作られたのも、海の彼方に自分たちの故郷があると考えた縄文人と同じような思考法によるものであったと考えられます。このように古代の人びとにとっては、渚や川の河口部、中州といった場所が生と死に関わる場所として重要とされてきたのです。

 

対馬に残された信仰形態

このような古代の信仰形態が原型に近いかたちで残されているのが、倭人と呼ばれる人びとが日本ではじめに上陸したと考えられている対馬です。

海洋アースダイバー講演2

上の写真からわかるように、対馬の和多都美神社は海に鳥居が立っています。これは海からきた神を迎えるためで、その鳥居を入るとその奥には深い森が広がっています。背後には山がそびえ、その尾根がちょうどくだってきた社殿の奥には、巨大な磐座が残され、それは巨大なヘビのかたちをしていると伝えられています。神社の本殿脇に目を向けると、そこには亀甲紋の入ったご神石が祀られています。この磯良石と呼ばれるご神体は神社と渚のちょうど中間に配され、潮の満ち引きで水位が変化するようになっており、満潮時は海に沈みます。

ワタツミと豊玉姫という夫婦とその息子のイソラの神話が残されていますが、この神話が地理的な条件のもとで聖地として顕れ、和多都美神社のように祀られていったのでしょう。ここに古代人の思想のあらわれを見ることができると所長は考えています。

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海洋アースダイバーの挑戦

以上のように、プレート・テクトニクスの理論や古代の地形などといった自然科学の知を手がかりとすることで、日本の古代において海がいかに重要な存在であり、日本古代の信仰形態がどのようなものであったのかということが明らかになってきます。歴史学者の網野善彦は、日本文化は海から考えなくてはならないと述べていますが、所長が茅根さんたちとともに取り組んでいる海洋アースダイバーは、まさにそのような試みです。海洋アースダイバーを通して日本の歴史を新しい視点から見て、その成果を教育にも応用していく。海洋アースダイバーという研究は、まだまだ今後の展開可能性を秘めた挑戦であると述べ、中沢所長は講演を締めくくりました。

 

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