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「哲学の夕べ-生きた貨幣-」レポート(前半):中沢新一「増殖的理性批判序説」

2015/08/31

2015年5月30日(土)、アンスティチュ・フランセ東京で「哲学の夕べ-生きた貨幣-」が開催されました。長時間に及んだその模様を前半、後半に分けてレポートします。今回の前半部ではロベール・ブレッソン『ラルジャン』の上映を受けて展開された、中沢所長による講演「増殖的理性批判序説」の模様をとりあげます。

 

「イメージの考古学」で見る『ラルジャン』

中沢所長は10年ほど前、「イメージの考古学」というものに大変興味を持ったといいます。その仕事の中で、「イメージ」は三つの層に分けられるという考察を行いました(詳しくは『狩猟と編籠 対称性人類学Ⅱ』にまとめられています。)今回の講演ではこの「イメージの三層」をとりかかりとして、『ラルジャン』からはじまり、資本主義の根源的問題にまで肉薄していく講演となりました。

『ラルジャン』は元々トルストイ最晩年の小説『にせ利札』が原作で、偽の利札を掴まされてしまった農民が辿る悲惨な運命についてを主題にした作品です。トルストイはこの小説を完成させることができませんでした。それは、にせ利札に始まる悪の連鎖(増殖)が彼の頭の中でとめどなく広がっていき、物語の収拾がつかなくなったからであるだろうと中沢所長は語ります。

L'argent

ブレッソンの作品は全て、増殖していくイメージを取り除くことを主題にしてきました。その代表的な映画が『バルタザールどこへ行く』です。中沢所長によれば、この映画の主人公は実は、人間の世界で起こることを残酷に映し出す「ロバの目」であるといいます。ブレッソンは、この「ロバの目」を通し、人間的な意味をすべて剥ぎとり、それをほとんど神の視座から映し出してみることが可能となるのではないかと考えたのでした。いわばブレッソンは、バルタザールというロバの目によって、人間性を剥ぎとった「意味ゼロ」のような世界(意味の増殖性のない世界)を照らし出すことを試みたといえるでしょう。

 

イメージの三層構造

それでは、中沢所長がとらえた「イメージの三層」とはいったいどのようなものなのでしょうか。

内部視覚

人類が最初に持ったイメージというのは洞窟壁画だと言われています。この洞窟壁画の研究は、ルロワ=グーランやジョルジュ・バタイユなどによって進められました。彼らがあまり着目していない点で、中沢所長にとって重要に思えたことがあるといいます。それは壁画として動物が描かれているのとは違う部屋に、抽象的な線や格子縞といった幾何学模様が描かれている点でした。それは、脳の中に自然に発生してくる光と幾何学模様の力動的な運動性をそのまま図像にしたもので、人類学の用語で「内部視覚」(entoptic)と呼ばれるものの作用です。中沢所長は、この内部視覚的なイメージを第一層と位置づけ、先述した具象的な動物壁画の方は、イメージの第二層にあたるのではないかと考えました。

この抽象画と具象画という2つの形で現れたイメージ層を、より深く考えてみましょう。まず前者は、外的な世界の対象を持っていない「無から無へ」と向かうイメージの氾濫です。それは、自分の内部からわき上がって来る光の構造、宇宙的な力、南米のインディオたちが「精霊」と捉えているような認知不可能な力のことを指します。

具象画

後者の具象的な図像は、イメージの第一層におけるその「超越的な力」を緩和するために儀式的に描かれた、「無から有へ」と向かうイメージ群です。そこに描かれたイコンとしての具象画の裏側では、認知不可能な力が脈動していると考えられ、その時具象画は、眼に見えないものの領域(無)と外部の世界(有)とを繋ぐインターフェイスとしての役割を担っています。この具象画は、奥底に認知不可能な「無」を帯びているとはいえ、表面上は具象的な事物を描いた「有」であり、「記号」として操作することが可能です。そしてこの記号(イメージの第二層)を操作・統御することによって得られるものが、「有から有へ」と横滑りするイメージの第三層です。この次々に横滑りしていくイメージは、資本主義社会をなす根幹と性質を同じくするものであると考えることができます。

 

農業の始まりと資本主義の始まり

洞窟の中で壁画を描いていたのは狩猟採集民ですが、それから二万年ほど経つと人類は農業を開始します。農業を始めると、狩猟採集とは異なり、穀物の増殖をベースに人間は生きるようになります。狩猟のように常に偶然性に左右されることがなくなり、遥かにコントロールしやすく且つ効率的な生活を営むことができる。春になって播いた種が、秋には何百倍にもなってくる。利潤(profit)発生の瞬間です。このことによって、人間の用いるイメージも変化してきました。

狩猟時代のイメージというのは常に、宇宙的・超越的な力(「無」)が、外部世界に知覚できるもの(「有」)に置き換えられていました。しかし農業を発明した人類は、この「無」との接触を切り捨て、「有から有へ」の変化、この世界に既に存在しているものを別の存在にメタモルフォシスさせることに終始するようになります。これが、農業時代に入ってからの人間が行うすべての行為の根底にあるものだと中沢所長は指摘します。

イネ

農業は穀物の種を大地に播き、それを数百倍に増殖させ、その利潤で国家を運営し、王を出現させました。私たちの社会はいま資本主義社会と言われていますが、これは新石器時代後期の農業革命が起こった以後の世界の在り方の最終形態ともいえるのではないかと中沢所長は述べます。イメージも貨幣も、「有から有へ」とメタモルフォシスする社会のなかで、「無」に触れる契機をことごとく奪われているのが資本主義社会の特徴だといえるのではないでしょうか。

 

 

富の連鎖が悪の連鎖を招く

ここで話は再び『にせ利札』、『ラルジャン』に戻ります。

資本主義社会における貨幣というのは、事物を「有から有へ」無限にメタモルフォシスさせ、因果の連鎖の巨大な輪の中に掴み取っていく力を持ちます。しかしもし、それが貨幣が偽物であったとき、因果の連鎖は悪の連鎖となって拡大していきます。トルストイは、これを克服する手段として「神」のことを考えました。トルストイの神というのはロシア正教の神で、カトリックの神より「無」に近い存在です。「人間を無の根底に接触させるもの」が神だという認識をトルストイはもっていました。もしその神がなければ、私たちの社会は「有から有へ」の限りないメタモルフォシスの世界に堕ち込み、富の増殖と同時に悪を次々と増殖させてしまうのです。

トルストイが『にせ利札』を書き上げられないまま家出し、ロシアの駅で寂しく一人死んでいったというエピソードは有名ですが、中沢所長によれば、トルストイはそのように持てるもの全てを放棄することによって自ら「無」に接触しようとしたのでした。

バルタザール

ブレッソンも、先述の「ロバの目」にみられるように、映画を通して「無」の領域に接触しようとした人物でした。とはいえ、これはパラドキシカルな行為であるといえます。なぜなら、映画ほど資本と記号操作としての物語をベースにし、我々を「有から有へ」のメタモルフォシスの中に巻きこんでいく力を持った装置はないからです。しかし、ブレッソンはあえて増殖性の権化である映画を無化することができるかに賭けた監督であったと中沢所長は考えています。ブレッソンが試みたのは、映画の中にいて、その中から映画を突き破ることは可能かということでした。それゆえ、「増殖的理性批判」という言葉に最もぴったりとくる作品が、ロベール・ブレッソンの『ラルジャン』なのです。

 

「増殖的理性批判」の先駆としてのバタイユ「呪われた部分」

この「増殖的理性」という問題を20世紀に最も大きく取り上げた思想家として、ジョルジュ・バタイユの名が挙げられるでしょう。バタイユは先ほど見た「富と悪」の問題を一体として考え、その根底に増殖という問題が潜んでいることを深く理解していたのではないかと所長は考えています。バタイユは、私たちの純粋理性が動かしている交換過程に入りきらないこの増殖性を、「呪われた部分」と呼びました。合理的で計量可能な経済活動の中に収まりきらないほどの増殖性が私たちの世界には溢れていて、そこに人間の矛盾があることをバタイユは説いたのです。

『呪われた部分』の冒頭部分は大変興味深いものだと中沢所長は言います。なぜならバタイユは、植物のことから書き始めるからです[i]。野原を歩いていて、植物が繁茂している。彼はそこで、増殖性というものの存在に震え上がります。植物たちは太陽光線を浴び、不断に光合成を行うことで太陽エネルギーを地球で使える形に固定し、次々と増殖を行っている。しかし、この固定されたエネルギーは、殆ど使われることなく大地に還っていきます。その事実に、彼は大変な衝撃を受けるのです。

キノコ

私たちの世界には「呪われた部分」、過剰したエネルギーの余剰部分があって、このエネルギーがどのように用いられてきたか(あるいは使いきれず捨てたり消尽してきたか)を、バタイユは宗教、国家、資本主義を分析することによって考えました。そうした意味で、バタイユは「増殖的理性批判」の先駆者であったと中沢所長は示します。

 

パラディグマ軸(喩を形成する力)の発生

近年の認知考古学の研究によるならば、人類が今の能力を獲得したのは、十万年前から二十万年前のことであると言われています。私たちホモ・サピエンスと、それ以前の人類(ネアンデルタール)とのあいだには、脳構造にある決定的な違いがあるのです。それまで個々の領域で行われていた脳の働きに、それらの領域を統合する中央制御室のような働きをする部位が生じました。この変化によって、「喩」(メタファー)の能力が発生し、意味の増殖が可能となったのだと考えられています。その「喩」の構造は、言語構造にも変化をもたらし、芸術と宗教を発生させました。

ネアンデルタール人これまでの研究によると、ネアンデルタール人が使っていた言語というものは、正確なシンタックスの構造を実現していた言語だったと考えられています。シンタックスというのはSVOという形をとりますが、この構造は外的な世界で起こっている現象を理解するには十分な構造を持っています。例えば、狩りをする時にはこの構造だけで十分です。しかしその狩りから帰ってきて、火を囲んでお祭りをして、芸術的な行為をするときには、その次の段階が必要とされます。それは何かというと、言語学が「パラディグマ軸」と呼んでいるもので、メタファーやメトニミ―といった「喩」を形成する力です。比喩とは、違う意味領域のものを二つに重ねて同じだという考え方のことです。パラディグマ(喩をつくり出す力)の垂直軸に属する能力が、シンタックスという水平軸に属する能力と結合したとき、いまの我々の言語活動は可能となりました。「この2つは同じだ」とする比喩とは、つまるところ意味の圧縮です。例えば、「花のように美しい女性」と言う時の場合、花と女性の間の現実の共通項はすべて無視され、私たちの脳の中にゼロともいえる領域が生まれています。それは、新しい意味というものが絶え間なく発生する領域です。それまでは「花は花」、「女性は女性」とそれぞれの領土に固定されていた意味が、結合し重ね合わされることで、新たな意味へと変容していくのです。

 

「脱領土化」および貨幣による「再領土化」

このようにして、「花は花」、「女は女」といった具合にこれまで領土化されてきた意味が、その領土を超え出て行くことになったわけですが、ここにはガタリとドゥルーズが語った「脱領土化」[ii]の概念が関わってくると中沢所長は語ります。

1

現生人類は脱領土化を可能にする脳内ニューロンの接合を実現したことによって、パラディグマ(喩)の垂直軸を生み出すことに成功しました。ですがそれと同時に、人類は脱領土化した(増殖した)意味を、再び領土の中に押さえこんでいくという操作を行っていきます。つまり、新たな意味領域が発生したときに、それらがもととしている「共通尺度」を用いて、もう一度その意味を領土の中に落とし込んでいく(平面に戻していく)のです。中沢所長によれば、この「共通尺度」こそが貨幣だといいます。

人間は意味の「脱領土化」と同時に、マルクス的に言えば弁証法的な過程として、貨幣による意味の「再領土化」を行うのです。つまり貨幣は、一度「喩」が結びつけたものを、貨幣価値という単一の「平面」で計量化してしまうのです。

 

「貨幣=平面」を超出する理性

現代社会はますます金融資本主義の方向にむかっています。しかし、私たちは同時に、それを脱出していくための知的な冒険を行っています。それは資本主義が産み出す圧倒的な増殖的理性を越えて、人間の自由な空間に入っていく営為です。今日の社会では、貨幣=平面の増殖的作用の中で、人間の実存はもてあそばれています。これを越えていく契機は、人間の理性の構造の中にあるのではないでしょうか。この世界を作り上げているのは私たちの理性ですが、そこから抜け出して道をつくり上げていく試みこそが、「増殖的理性批判」の試みであると述べ、中沢所長の講演は終了しました。

 

 

後半ではペーター・サンディさんによる講演「アイコノミーと視線」、そして最後は中沢所長とサンディ氏の2つの講演を受けつつ、廣瀬純さんを加えて行われた鼎談「生きた貨幣」の模様をレポートします。

※なお「イメージの三層」を駆使した『ラルジャン』論は、中沢所長の『狩猟と網み籠 対称性人類学Ⅱ』(講談社)の中で詳しく読むことができます。

 

(文:後藤護、野生の科学研究所)


[i] 『ジョルジュ・バタイユ著作集 呪われた部分』(生田耕作訳、二見書房、1973年)の「第一部 基礎理論」における「二.普遍経済の諸法則」内に記述あり。

[ii] ドゥルーズとガタリが『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』で展開した概念で、「領土化」と「再領土化」と三位一体をなす相対的な概念である。

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