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金華山からはじまるー海と山の修験道 レポート

2014/07/03

2017年に行われる国際芸術祭のキックオフイベントとして、シンポジウム「金華山からはじまるー海と山の修験道」が石巻市内で開催されました。シンポジウムでは、自然と向き合う宗教として修験道を芸術祭のテーマに掲げ、中沢新一所長の基調講演の後、金華山黄金山神社権禰宜の日野篤志さん、出羽三山・山伏の成瀬正憲さんを交え、金華山や修験道を通じた日本の未来について語り合うパネルディスカッションが行われました。

-基調講演(中沢所長)-

自然と格闘する宗教

今回の国際芸術祭では、あの大震災を体験した東北の方々が、何をモデルにして新しい生活を作っていけばよいか、そのヒントとなるものが修験道にあるのではないかと考え、芸術祭のテーマの一つに修験道を据えました。ここ牡鹿半島には、古くから修験道が盛んだった金華山もありますので、今日のシンポジウムでは修験道による新しい復興についてみなさんと一緒に考えてみたいと思います。

修験道は、仏教と神道が一緒になった神仏習合という形をとっていますが、この宗教は日本の宗教の中で、自然と正面から格闘し、自然を積極的にみずからとりこむべき主題としてきた特異な宗教です。仏教も神道も自然を扱ってきましたが、仏教の場合は自然の問題よりむしろ死の問題を中心的なテーマに据えています。また、神道では自然が大きなテーマになっていますが、神道が相手にしているのは穏やかな自然です。一方、修験道が相手にしている自然は、大変荒々しい自然です。この荒々しい自然の中に進んで入っていって、その力を受けたり、人間の生死の意味を荒々しい自然の中で考えていこうとすることが、修験道の大きな特徴です。これは、東日本大震災をきっかけとして、私たちが考えなければいけない主題と深くかかわっています。

 

「死」の体験

今回の大震災では、地震と津波によって多くの生活が破壊され、不幸なことに数多くの死を見届けることになりました。このことは、現代を生きる私たちにとっては大変ショッキングな出来事でした。なぜなら、今では自宅で亡くなる人も少なく、死に直接触れる機会がなくなっているからです。修験道は、こうした管理され、隠されてしまった死と直接向き合う宗教だと言えます。

修験道は、自分の中に「自然」や「死」を取り入れる宗教です。中でも羽黒派修験の修行では、まず自分のお葬式をあげることから始まりますが、白装束を身にまとうことで、死者となって山の中へ入っていきます。山は象徴的に母親の胎内と考えられ、その山の中で何日間も修行をして、新しい生命体として蘇ってくる、この一連の過程を演じるのが修験道です。

修験道の中には、「自然」と「死」の要素を間近に体験し、自分を常に作り直していかなければならない、という考え方が潜んでいます。ですから、修験者は山の中や金華山のような場所へ進んで入っていきます。しかも、修行をしてするときには、死んで生まれ変わってくる過程を自分で演じていくのですが、これは生活の中で排除されている「自然」や「死」の要素を自分の中へ取り入れ、作品を作ることで生命の再生を行う「アート」の行為とよく似ています。似てはいるのですが、修験道はコントロールの効かない自然の中へみずからを投げ込んで修行をするという意味において、「アート」の先にあるものです。こうしたことが、金華山でも行われてきました。

 

新しい復興のかたち

金華山は、とても不思議な聖地です。牡鹿半島から海を渡らなければ、たどり着くことのできない場所にあります。この聖地には山がそびえ立っていて、その山へ入って修験者たちは修行をしてきました。また、この金華山は、修験者たちだけではなく、弁財天の霊力に触れることによって自分たちの霊力をもう一度復活させていくために、一般の庶民の人たちが盛んにお参りをしてきた場所でもあります。こうした歴史を持つこの島をもう一度思い出すことによって、本当の意味でこの地域の復興が可能ではないかと考えています。

国際芸術祭では、「アート」と「修験道のような自然の宗教」の二つを大きなテーマとして取り上げたいと思います。どちらも、今の世界を作り上げている自然を完全に人間の管理下に置いたり、死の現実を見えないようにする社会や文化の作り方は正しくないと考えています。

人間というのは自然に囲まれた小さな存在で、数十年間この世界に現れはしますが、いずれ死の中に帰っていく、そしてまた死の中から新しい生命となってこの世界へ戻ってくる、そのような存在です。こうした世界観を作っていくきっかけとして、この芸術祭を作っていきたいと考えていますし、それこそが大震災という稀有な体験を与えられた私たちがなすべき、新しい復興のかたちではないかと考えます。

(基調講演・了)

-パネルディスカッション-

基調講演の後、権禰宜の日野さん、山伏の成瀬さんを加え、三名によるパネルディスカッションが行われました。

金華山と龍神信仰

金華山は周囲26キロ、頂上445mの秀麗な山容をもつ自然豊かな島です。島の周囲は断崖や岩場に囲まれ平地がほとんどありません。神奈備型をしたその独特な姿は、はるか遠くの洋上からもよく見えることから、古代から海上交通の目印になってきました。また、金華山の黄金山神社は、古く大金寺の時代から弁財天が信奉され、女人禁制の厳しい修験の行場であって、金が取れると言われたことから現世利益を求める多くの参拝者を集めてきました。今では、牡鹿半島の鮎川港や女川港から船に乗って簡単に島に渡ることができますが、昔は海を渡るだけでも一苦労だったようです。

日野さん:「男鹿半島の岬にある山鳥渡しの船着場は、地形の問題で船を停泊することができませんでした。ですので、金華山側に船を泊めておいて、こちらの渡し場の鐘を鳴らすと、金華山の船着場から出船の合図となる鐘がかえってきて、渡し船がやってきます。その当時は、手漕ぎの船で渡していたため、海が荒れると何日も船が出ませんでした。」

黄金山神社は、護摩を焚いていたこともあって、幾度も大火に見舞われてきました。そのため、貴重な資料も消失して、昔のことがよく分かりません。日野さんによると、昭和58年に嘉永3年(1850年)まで元舟場にあった石碑が海中から発見されたのですが、これを機に長らく途絶えていた龍神信仰由来の龍神祭り(蛇踊り)を復活させたそうです。黄金山神社では、こうした偶然の発見から龍神信仰が復興されましたが、残された資料では到達できない信仰の形態があるとすると、それはどんなものだったのでしょうか。

中沢所長:「日本列島へは様々なルートで人々が入ってきましたが、南ルートで日本に入ってきた人々によって、蛇の神やそれと結びつく雷の神に対する信仰が持ち込まれました。これらの神々は山と結びついていますが、山が重要なのは宇宙の底に隠されている力があるとされています。その力は龍と考えられているのですが、それが世界に現れてくるときには山の形をとるのです。また、山の形を取りながら、龍蛇というのは水源地の神でもあるので雨をもたらしますし、雨は雷と関係しています。こうした蛇と山と雷が結びつく信仰は、東南アジアでの人の移動によって、広い範囲でみることができるものです。」

大地の龍が、この世界に上昇してくるもっとも美しい姿が、神奈備型をした山の形と考えられてきました。金華山は、その山の形が「宝珠のごとく」と歌われましたが、これはまさしく神奈備型の山と言えます。こうした山は日本各地に点在しますが、金華山を南ルートで伝えられた龍神信仰と重ねてみると、単なる洋上の目印であることを超えて信仰の山であり続けてきた、ということがよく理解できます。

 

海と山の修験道

金華山では、資料の消失によってその歴史を知ることはできませんが、神仏分離以前の大金寺時代には、島内に残る遺跡や地名等によって、多くの修験者を集め修行も盛んに行われていた様子をうかがうことができます。また、資料の消失と同じく、金華山の修験道は、古くは羽黒山や恐山とともに東北の霊場として並び称されてきましたが、残念ながら今ではその姿を見ることはできません。金華山では見ることのできない、自然と格闘する宗教としての修験道とはどういうものか、成瀬さんはみずから修行を続ける羽黒修験を例に語ります。

成瀬さん:「修験道は、日本の宗教の中でもプリミティブな要素をもっていて、原初の形を残しています。羽黒修験の秋の峰では、山に入って死を体験し、蘇るということを今でもやっていますが、その中で十界行という修行が行われています。そこでは、畜生や動物、人間や仏とはどういう存在か、体験を通じて理解をしていきます。修行を通じてそれぞれの存在に生成変化していくと、人間の生という輪郭がはっきり照らされてきます。山伏が山に入って行くことは、様々な存在になっていくことを通して、私たち自身への理解を深めていく、そういうものだと思います。」

羽黒修験では、十界行という独特な修行が行われてきましたが、それは自然と格闘しながら自然の多様性を受け入れ、修行を通して悟りを得ようとするものです。そもそも修験道と言うと、山中で修行をするイメージが思い浮かびますが、金華山は島で四方を海に囲まれているため、海との関係が想像されます。修験道と山には深い関係がありますが、海との関係があるとすれば、それはどんなものであったのでしょうか。

中沢所長:「古代人が修行をしていたかというと、山に入って修行をするということはなかったと思います。実際に、山の中へ入る人たちが現れたのは、日本に国や都市ができあがる8,9世紀頃と考えられます。仏教は国家とともに平地で発達しましたが、それは仏教が権力をまもるために儀式をするからで、それによって寺院には莫大な財産が入ってきたことによります。さらに、平地で作られたお米を税金として徴収していましたが、このシステムを守るために仏教は存在していました。しかし、こんなものは仏教ではないと大変野心的なことを考えた人たちがいました。それが山伏です。彼らは、まず海に近いところの山を選んで、そこへ入り込んで修行をしています。ですから、修験道はもともと海辺の宗教だったと考えます。」

大陸や南方から日本へ渡ってきた人々は、もちろん船で海を渡ってきたため、古代の日本人はもともと海沿いに移動を繰り返し、海のそばで生活してきました。そして、国家や都市が形成されてきた時、海辺で生活していた人たちは、そのままのメンタリティーを持って山に入っていきました。彼らは、その修行場として、海に面した神南備型の山を好んで選んだようです。仏教とは異なる反権力的要素をもつ修験道、また村落ごとの講を通じて庶民から支持されてきた修験道のルーツは、海辺に暮らす人々の精神にあると言えるかもしれません。そして、資料が失われた中でも、こうした歴史や文化が息づいているのが金華山を含めた牡鹿半島一帯といえます。

今回の震災で、金華山も大きな被害に合いました。黄金山神社でも建物が損傷し、道が崩れ、各所に点在する遺跡が倒壊しました。日野さんは、当時、島の外から駆けつけた震災ボランティアの活動に、現代に息づく修験道的な要素を感じとったといいます。

日野さん:「金華山は、大金寺の時代から何度も荒廃を経験したのですが、その度に金華山で修行をした修験者が各地で金華山信仰を説いてまわることで復興を成し遂げてきました。今回の災害後に集まっていただいたボランティアの方々に、現代の修験を重ねて見ていました。金華山のtree山頂の護摩壇を直すために何日も登ったり、様々な復旧作業をされているボランティアの姿を見ている中で、そのようなことを感じました。」

中沢所長:「日野さんの話は、とても大事なことです。日本全国から東北の被災地へボランティアが集まった理由を考えてみると、大震災を目撃し、そこに立ち現れた荒々しい自然や死に身を投じてみなければならない、そういう気持ちになった人が多かったのではないかと思います。山伏もまったく同じで、荒々しい自然に自分を投げ込みたい、という気持ちで山伏になっていく人が多いのです。一方で、ボランティアの人たちは、装束も着ないし、法螺貝も吹かないですが、その精神は山伏をやっている人たちとよく似ていますし、日野さんのおっしゃったことはそのとおりだと思います。」

 

金華山からはじまる、山伏的生き方

自然の媒介者として自然の知識や薬草などを里人に与える役割を担う山伏、その一方で、中沢所長が語るように直接的に自然や死に飛び込んでいく山伏の姿があります。成瀬さんは、現代にこそ、生成変化する体験から自身を見つめなおすこの山伏的な生き方が光になると感じています。

成瀬さん:「羽黒修験では30代の山伏が増えてきていますが、その理由として、この時代において自分の拠り所をどこに求めて行ったらいいか、そのことを探求するために山があるのだと思います。また、その一つの重要な場所として金華山というものがあって、金華山から何かを始められるのではないか、と考えています。」

audience

震災直後、全国に広がる自粛ムードの中、石巻では川開き祭りの開催をいち早く決断しました。そうした地元の心意気と祭りに集まる人の力に後押しされたと語る日野さんは、大自然の広がる金華山の重要性を肌で感じてきました。

日野さん:「金華山には、世界に誇れる精神的な財産があります。神道的な立場から言うと、自然の恵みに感謝すること、この自然を畏れ敬うことです。また、金華山信仰には、ご利益信仰があるのですが、ご利益は方便であって、これがあるからこそ見えない世界に感謝し、救いにつながるという本来の姿が金華山にあると思います。」

金華山の修験道の復活を望む、中沢所長。と言っても、格好にはこだわらない、それよりもむしろ山伏の心持ちになることの重要で、それは哲学のようなもののようです。格好にはこだわらない、修験道の実現、そんなことはできるのでしょうか。

中沢所長:「こんなことができたら、この地域の皆さんの心の復興が、普通のところとは違うよ、とはっきり言うことができるのではないかと思います。山伏的な復興というのは、決して元の世界には戻らない亡命的復興です。心は亡命しているのですが、周囲からは分からないように日常生活を送っていくというのが山伏の生き方です。これを皆さんが実現していくことが、私の夢です。」

(文:天野移山)

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