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岩野卓司×中沢新一:「思想の〈大地〉へ」(図書新聞3162号)

2014/09/19

「思想の「大地」へ ―― 「右」でも「左」でもないもの、何か徹底的に違うところから育ち始めているものが見てみたい」

明治大学出版会より刊行が開始された「野生の科学叢書」の第二弾、岩野卓司さんによる『贈与の哲学』をめぐって、図書新聞(2014年6月14日、3162号)に岩野卓司さんと中沢所長による対談が掲載されました。

カトリックの思想的展開から「贈与」まで、時間は不可逆性の中で「失われた時」を回復できるのかどうかをめぐる意義深い対談です。今回は図書新聞さんのご好意で、対談を特別に掲載いたします。

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フランス思想の真の主流とは何か

岩野 ジャン=リュック・マリオンという思想家は、日本ではまだあまり知られていませんが、中沢さんは昔からマリオンに関心があったのですね。

中沢 ぼくは若い頃からフランスのカトリック系の思想家に関心がありました。ついでに反カトリックの思想家についてもそうで、バタイユなどもむしろカトリックの思想家だと見ていました。マリオンの名前だけは前から知っていましたが、深く関心を持ったのは、シカゴ大学で彼が著作Étant donnéについて講義を行ない、聴衆が満場を埋め尽くしていたと、その場に居合わせた友人の話を聞いたときです。それまではフランスの思想家といえば左翼系ないしユダヤ系が主流でしたが、いまやマリオンのようなカトリック系の思想家が多大な関心を集めはじめている。しかもその人はハイデッガー、フッサールの哲学の根底をカトリック思想の側から読んでいくという、いままでは考えられなかったような冒険をおこなっている。時代は変わったなあ、と実感しました。その頃はデリダが『時間を与える』を出し、その議論の背後にはマルセル・モースがいたりして、贈与の問題が大きい主題になっている時期でした。マリオンはその問題に対してどうもデリダあたりとは違うことを言っているらしい。それで興味を持って読みはじめたのです。あらためて、フランス思想の真の主流とは何か、ということを考えさせられました。

フランス思想における「保守」は、最近ではほとんど省みられることがありませんでした。五月革命以降の思想だけがいわゆる「現代思想」として注目を集めてきたけれど、そうした左派的な思想にも見えない土台のようなものがあって、その土台自体は右でも左でもないのです。その右でも左でもない思想の土台をもう一度取り出す作業をしておかないと、もはや思想に「現代」などというものは出現しえなくなるのではないか。それほどまでに、現代の思想の大地は除草剤や農薬づけで「地力」を失っているように、ぼくには感じられていました。フーコーやデリダが開いた道も、ますます狭い道に入り込んでしまっているようでしたし、それを再生産している人たちの思想も、反復がなされるたびに、小さくなっているように感じられました。何か徹底的に違うところから育ち始めているものが見てみたい。そうしたときに、マリオンがぼくの前にあらわれてきたのです。

岩野 実は、中沢さんの思想の中でぼくが一番関心があるのは、「インターフェイス」の発想です。境界線自体を問題にしている点です。これは政治思想の次元でも言えて、左の中にもキアスムのように右が浸透して、その逆もまたそうである。そこを考えないで「俺は唯物論者だから」などと言っていたら、思考がストップしてしまいます。だから、ある種の左翼の理想主義者が無自覚のうちに右翼的な身振りを演じたりするのです。唯物論にせよ左翼というポジションにせよ、インターフェイスとともに問うていくべきなのではないのでしょうか。

中沢 吉本隆明が、最後の本になってしまった『フランシス子へ』で親鸞のことを書いています。弟子がいなくなって孤独になった親鸞が房総半島の突端に行く。そこでは二つの海流が渦を巻いていて、どちらともつかないような渦巻きのカオスをつくっている。それを見て親鸞はいろんなことを考えたんじゃないかと吉本は言います。ぼくがインターフェイスと言っているのも同じようなイメージです。親鸞は、善でもなく悪でもなく、修行が必要だとも不要だとも言わないで、そのあわいに分け入っていく。おそらくそここそが、あらゆる思想が生まれてくる大地です。そこに立脚しないと先はないだろう。そんなことを考えていた矢先に、たまたま同僚となった岩野さんと話をしたら、岩野さんがマリオンの学生だったというので、びっくりしたのですよ。

岩野 マリオンはわりと度量が広いところがあって、ニーチェやハイデッガーの無神論もレヴィナスのユダヤも思想的に受け入れています。僕はバタイユの研究で博論を準備していたのですが、彼自身の「愛の神学」とバタイユの「無神学」の近さを感じてマリオンは指導を引き受けてくれたのだと思います。でも、スカトロ神学には耐えがたいものを感じていたかもしれませんね(笑)。

いま、大地という言葉が出ましたが、今回の『贈与の哲学』でもミレーの「晩鐘」を引きながら、カトリックはある種の泥臭さ、土着性に立脚しているのではないかと中沢さんは指摘しています。画家も、異様なくらいに大地というものにこだわりを持っている。大地というのはやはりカトリックの源泉なのでしょうか。

中沢 カトリックはキリスト教の中でも最も「異教」的な側面が強いと思います。三位一体論とマリアの問題に、その異教性が組み込んであります。一神教は基本的に女性性の否定から出発します。人間を母性的•大地的なものに包み込まれている状態から引き剥がし、個体として成長させるということが一神教の基礎に据えられています。「エクソダス(脱出)」という言葉は、表面的な意味では、エジプトのファラオのもとに奴隷として暮らしていたユダヤ人たちを、隷属から解放して、砂漠へ連れ出して約束の土地へ向かわせたという風に解釈されますが、密義では、アジア的な母神宗教に包摂されていたユダヤ人に「精神の割礼」を施して、母子関係からの引き離しを実現するという意味が隠されています。これは土着の否定でもあり、異教の否定でもあります。このように想像界からの象徴界の分離がエクソダスの密義として理解されましたが、このことは「ヨーロッパ」がつくりだされる過程での、重大問題になります。ヨーロッパのカトリックでは、マリア信仰という形で、一神教の内部に母子関係の力を回復させています。

そればかりではなくキリスト教の基礎である、三位一体の中の「聖霊」というのもがどうもあやしいのです。このことはマリア信仰と併せて、贈与の問題と深く関わっています。カソリック思想では、存在と贈与性が聖霊を介して、一つに結び合っています。存在を語るときにはそれはすでにして贈与性に関わっている。存在=贈与ですらある。それが形而上学的にセットされている。日常生活や人生にもそれが生きている。エスプリとかガイストとか呼ばれたこの聖霊は、そのために哲学的思考の中で、表にあらわれてくることはないけれども、深いところで作用を及ぼし続けました。このエスプリ=ガイストが現象のおおもとであり、ヘーゲルはそれをもとにして『ガイストの現象学(精神現象学)』を書きました。本流的なヨーロッパ思想にはこういう土着性が深いところにセットしてあります。レヴィナスのようなユダヤ思想家たちがハイデッガーと格闘しながら問題にしたのも、そこでした。こういう土着性が、カソリック的なフランス思想には分厚くまつわりついていて、現代のEU問題などでもときどきそれが奇妙な形で噴出してきているように感じます。

岩野 マリオンの著作には大地的なものは直接的には出てこないのですが、彼はある種の神秘的経験にすごくこだわります。「飽和的な現象」、飽和して過剰になる現象が彼にとって重要であると。しかも、その源泉としてネオプラトニストのディオニシウスの『神秘神学』を異様なくらい持ち上げます。これは先に話に出た大地や異教的なものと関係があるのでしょうか。

中沢 あると思いますね。フランスではマリオンのような知的に洗練されたブルジョワから、ルルドの泉に出かけて行く信心深い人まで、じつに広い幅があります(笑)。おそらくはルペン党首の国民戦線に投票している人たちの大半も、そちらに属する人たちでしょう。こういう思想的大地のことを無視して、はたして現代思想などというものがありうるでしょうか。それに敵対し、批判し、啓蒙を訴えていれば、それが現代思想になりうるという時代は、この資本移動と惑星的規模での移民の時代には、もはや力を失っているように感じます。

渦巻きは過剰部分を孕んでいるから、本来的に概念を超えてしまいます。そうした過剰を大地は抱え込んでいます。バタイユは過剰を土台に据えた経済学を構想しましたが、そういう試みはこれからもくりかえしなされなくてはならないでしょう。ぼくがベルサイユ宮殿のフランソワ・ケネーの経済学などにこだわっているのも、そのためです。それは格好いい現代思想とは異質な泥臭さを持っていますが、あえてそういうものに立ち戻ってみなければならないほどに、ぼくたちはにっちもさっちもいかない世界に突入していて、今日の格好いいは明日にはもはや通用しません。

岩野 中沢さんはケネーにバタイユの「太陽の贈与」を重ねていますよね。

中沢 『資本論』は交換の象徴界から分析をはじめていますが、これを交換の想像界から始めるとどうなるか、と考えたときに、ケネーとバタイユの立脚点の共通性が見えてきたのです。

 

存在は贈与である

岩野 中沢さんの世代もぼくのときも、左翼的なものの考え方が一般的で、その「概念」を習得することから始めましたよね。

中沢 自分の体験に照らしてみても、若い世代の人が「概念」を身につけることに向かおうとする魅力は、知の支配力の中に潜んでいます。知は現実を支配するという権力性を持っていますから、若者の心の中のファロスがそれを強烈に求めるのです。ぼくはそれにどうしてもなじむことができなかった。それで民俗学などに関心を持ったのかもしれませんね。民俗学的な知は、本質的に脱権力的です。天候の知り方、道具の使い方、人間関係のつくり方などをめぐる具体的な知は、知っているから偉いというような性格のものではありません。知が現実をこび超えて、現実を支配するようなことがないからです。そういう知を身を以て学んでいくことがとても大事であることを、理解するようになりました。

岩野 マリオンに話を戻すと、デリダとの対比で、デリダはユダヤ的なものをバックボーンにしていて、マリオンはカトリック。宗教的なものを背負ったうえでの対比なのですね。

中沢 贈与をめぐるデリダとマリオンの対決を見ていると、どうしてもカトリックとユダヤの差異ということを考えざるをえません。贈与の問題に、それはシャープな形であらわれてきます。カトリックでもプロテスタントの哲学でも、存在と贈与が一体として扱われています。それは同じ言葉で存在と贈与をいっしょに表現してきたヨーロッパ古語の特性に関わっていますが、その世界で発達した宗教の中でも、中心的な概念となりました。

印欧語では、「ある」、「理解する」などの動詞が、「向こうからやってくる」という動詞であらわされます。たとえばヒンディ語では、「恥ずかしさ」が向こうからやってきて私に宿ったから「私は恥ずかしい」と思うのですし、ある思考が向こうからやってきたので、私に理解が生まれる、という表現がなされます。ドイツ語における同じような例を、ハイデッガーはたくさん挙げています。存在はどこかから贈与されているものです。啓示、恩寵などの概念は、すべてこの存在=贈与という基本的な考えから発生しています。

デリダやレヴィナスは、こういう土着思考を批判してきました。その批判のポジションによって、彼らはユダヤ的なのだと思います。カトリック的な思考では、贈与は交換よりも根源的で、存在が存在者に退落していくように、贈与は交換に落ちていくことになります。しかし交換と贈与はそこでは一つの連続体をなしています。こういう思考をモデルにしたのがラカンで、彼がボロメオの輪やクラインの壺のモデルによって、贈与的な中間的空間がトーラス構造をした交換空間に変わっていく様子を、ひとつづきのトポロジーで表現してみせました。その意味では、ラカンの思想はじつにカトリック的です。これにたいするデリダの批判は、じつにユダヤ的です。彼は絶対贈与なる概念を立てることによって、贈与の思考そのものを脱構築しようとしました。そしてそれにマリオンが挑んだ。こんな面白い論戦に興味をかき立てられないわけがありません。

プレゼンテーション1

岩野 デリダはユダヤ的なタームを使いながら、それをずらしてユダヤの固有性に回収されないように振る舞います。そもそも彼の哲学は同一性や固有性を脱構築することにあります。レヴィナスと違い、自分が背負っているユダヤ性を問い直し脱構築していかないと哲学は前進しないという考え方です。だから、人間の固有性を脱構築するために、動物について問い直したりもします。とはいえ自分のユダヤ性は消し去ることはできないから、この思索は終わることのない闘いだったのではないでしょうか。贈与と交換を峻別する『時間を与える』のあと、アブラハムとイサクの話を扱った『死を与える』を書いたのもこの格闘の跡だと思います。

『贈与の哲学』では、忘却のうちにしか贈与を考えることはできないという論点を出しました。贈与をそれとして認めたら象徴的等価物を返したことになり、贈与は交換になってしまうというデリダの考えを踏まえたものです。さらに付け加えると、ラカンを批判しつつ、デリダは「誤配」の考え方を展開します。手紙を出すという贈与には、目的地に到着しない可能性があるのです。贈与はその本質において目的地につかない可能性があるのではないのでしょうか。

中沢 贈与が目的地に着かないということは、人間の世界ではつねに起こりうることでしょう。存在もまた目的地などはもたない。モース的な意味の贈与だって、うまくお返しができないということが、贈与の前提になっているような気がします。贈与空間はカオス的に動揺しています。その意味では、デリダの批判はあまり的に当たっていないように思うのです。

岩野先生

岩野 マリオンの「与え」という考え方は、神はケチくさくないから誰であろうが勝手にどんどん与えているということですから、中沢さんの恩寵の考え方に近いですね。

『贈与の哲学』では「負の贈与」という論点も出しました。負の意味での「忘却」が伴っているのが贈与です。贈与が人間関係を遠ざけてしまうような負の面もある。マリオンも、還元という操作をしない限り贈与には到達できないとします。やはり負の部分を見ているのではないか。しかし中沢さんは、例えば母親が子どもにおっぱいを与えることに根源的な贈与、贈与の始まりを見ていますね。この考え方は実にユニークで面白いのですが、負の贈与、「毒の贈与」はどう関係してくるのでしょうか。

中沢 贈与世界は一面で息苦しくもあり、毒を放つものでもあります。どんなものでも贈与された瞬間に「負債」をつくりだしてしまいますからね。負債を解消するためには反対贈与を行なわなければならない。しかももらった分よりたくさん返すわけですね。少なく返したら、負債が連続してしまう。だから、贈与は下手をするとベタッとつながってしまいますが、どこかで切らないといけない。贈与がつくる輪廻の輪に対する否定性は、つねに考えられていました。意識的な忘却によって、長い連鎖を切っていこうとする生存の戦略が、つねにありました。切断しつつつなげていくという構造で、贈与空間はできています。贈与の問題は、まだまだ解き明かされていませんね。

 

「ハイブリッド人文科学」をつくっていかなければ

岩野 ところで、マリオンは神秘的経験の一番の例としてキリストの啓示をあげています。これは学問的中立性を守る現象学にとって危険なことであり、ぼくもずっとそう考えてきたのですが、中沢さんと何回もお話する機会に恵まれ、考えが少しずつ変わってきました。避けるべきものを中に取り込むことによって可能性が生まれるのではないのか、と今では考えるようになっています。マリオンは「あたかも~であるかのように」といったような言葉を使いながら神の啓示にだんだん近づいていって「発見」していくというやり方をとろうとします。中沢さんはこの「発見的手法」が自分の思考方法にあっているとおっしゃっていましたよね。

中沢 最近、自分のやっている仕事は、ある意味で自分の『失われた時を求めて』だな、としきnakazawasenseiりに思うのですよ。時間は不可逆的に動いていくけれども、「失われた時」を回復できるのかどうか。これはレヴィ=ストロースの『野生の思考』最終章の重大なテーマになっています。思考構造の中には無時間性の場所があると彼は言います。ぼくはそれを「対称性」と言いかえました。現実世界はすべて非対称です。物質も非対称でできている。しかし物理学では、対称性に戻さないと非対称が理解できないと考えられていて、それを実現するために、CERNでは巨大な実験装置が今日も動いていて、現実世界に対称性状態を出現させようとしています。科学も物質の中に「失われた時を求めて」いるのではないでしょうか。

生物学でも「失われた時」の探求が進んでいます。いま話題のSTAP細胞は「初期化」をめざしています。細胞は受精の瞬間から徐々に機能分化を遂げていき、逆戻りはできない。胚の万能状態は、個体の中では「失われた時」として回復されないようになっている。ところがクローン羊のドリーの実験からiPS細胞STAP細胞まで、細胞レベルで「初期化」が可能であることを実証しようとしています。ことにSTAP細胞の場合には、人工的誘導によるのではなく、細胞自らが初期化をおこなうSTAP現象があると主張しているのですから、ある意味きわめてスキャンダラスな話です。

イエス・キリストも「失われた時」なのではないですか。神が人間の前にあらわれたのはアブラハムとモーゼの二度しかありません。そのときだけ、人間と神は対称性を取り戻した。ところがそれ以後、イエスにいたるまで人間と神の非対称状態を解消するものはいなかった。聖テレジアの法悦人間と神の非対称性が解消され、人間の脳が神と同じ対称性状態の高エネルギー体になって、「初期化」された。そういう初期化の三回目の出来事がイエスとして実現された。このとき胚幹細胞に初期化されたのですね。イエスの啓示ということを、ぼくはそのように理解しています。

キリスト教とギリシャ哲学が論争を繰り広げたことがあります。ギリシャ哲学は啓示を知らないじゃないか、だから我々よりも一段下なんだとキリスト教は主張した。ギリシャ人も時間の再生を知らなかったわけではありませんが、キリスト教の側からすれば、イエスとしてリアルにそこにあらわれているのだから、やはりそれは強い(笑)。哲学は自身の内に啓示を取り込まないようにしてやってきたけれども、しかし啓示を隠蔽することもできません。

なんか岩野さんに突っ込まれて、ぼくが一生懸命にマリオンを擁護している、という妙な状況ですね(笑)。

岩野 その困難さは現代まで続いています。ハイデッガーは、それ以前からあるギリシャ的なものの考え方を前提にして、ギリシャの「存在の思索」があるからキリスト教的な啓示の考え方も可能であると説明します。キリスト教の側は、イエスがあらわれたという「事実」を先行させ、ハイデッガーの考え方がキリスト教の焼き直しではないかと指摘する。だから決着がつかない面がありますよね。しかしマリオンの場合は、可能的な決着として「経験」を入れようとする。

中沢 キリスト教がかつて強大な影響力を持っていた時代には、哲学がそれに対抗して戦っていましたが、現在はそういう時代ではない。誰も本気でキリスト教のことなど心配していないでしょう。そんな時代にかつてのキリスト教と哲学の緊張関係を相変わらず続けていていいのだろうか。

岩野 例えばベルクソンでも晩年には心霊現象に関心を持ちますし、神秘家における魂と神の融合という考え方についても、それは生きながら死んでいる人間になるということだとし、死と生が混同される危険性が出てきます。20世紀になって、生と死の境界線の問い直しは試みられており、これはバタイユ、ブランショ、デリダにはっきりと見られる系譜です。マリオンの場合の、啓示的現象と哲学的概念の境界線の問い直しもこの延長線に位置づけることができると思います。それを問うことで哲学がある種の虚構性を引きうけることになるもの、それは死であり神の啓示なのですが、それとの関わりを哲学は引き受けざるを得なくなってきているのではないのでしょうか。

もう一つ、中沢さんの文脈ですが、「野生の科学」の考え方で中沢さんは数学を重んじています。数学は独自のシステムで発展していきますが、それが農業と一致すると中沢さんは言います。単に数学的なモデルの農業への適用ではなく、両者に本質的な一致を見ようとしている点で、一つの神秘主義があるのではないかと思うのですが。

中沢 一線を超えているかも知れません(笑)。ぼくが中学生のときに数学者の岡潔が『春宵十話』という本を出しました。生涯で最も衝撃を受けた本の一つです。その中にさらっと「数学は百姓である」と書いてありました。これはすごい表現です。数学者はよい種を選んで適切な場所に蒔く。すると土や水が種(アイディア)を育ててくれると。しかし物理学は違う、物理学者は指物師だと岡潔は言います。長さを測って組み立てるだけだから真の創造は行なわれていない。ここには贈与の考えが入っていると思います。数学は贈与によって成り立つ。ところが物理学は交換だと言っているんですね。あるいは、数学は恩寵による。物理学は恩寵によらない学問であると言ってもいい。この言葉がぼくを数学に釘付けにしました。

土水

数学は農業であり、存在は贈与であり、存在は恩寵です。それらは一体です。岩野さんはそこに神秘主義があるんじゃないかと言ったけれど、神秘主義と言われると癪だから(笑)、まあ、剰余価値があるぐらいに言っておきます。

岩野 そこがものすごく面白い。アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム第二宣言』で書いた「至高点」というのがありますよね。正反対のものが境界を超えて一緒になってしまう。バタイユは戦前にあれほどブルトンと敵対したのに、戦後には至高点の考えを引用して、正反対なものが差異を孕みつつ一緒になると解釈して、これこそ自分の言いたかったことだと言います。これは、それこそインターフェイスかもしれません。

中沢 通路がありますよね。ブルトンには「通底器」という表現もあります。ブルトンには思考のみごとな統一性があります。

岩野 ブルトンは統一的な美しさを求めるような人ですからね。その点、バタイユは……。

中沢 バタイユには根本敬みたいなところがありますし(笑)。

岩野 調和的な美とスカトロのインターフェイスですね(笑)。最初のほうの話に戻れば、右と左の両方を取り込んで両者のインターフェイスを考えようとする発想や「渦巻き」、贈与と交換というのも、贈与が根源的だと言いながら分かれてしまうのではなくて、最後はまたつながってくる。

中沢 その手始めとして、ジャン=リュック・マリオンという人を日本に上陸させたかったんですよ。フーコー、ドゥルーズ、デリダだけではない、マリオンのようなフランス現代思想もあるのだということを、若い世代の哲学者たちに伝えたい。

岩野さんの『贈与の哲学』は、「La science sauvage de poche(野生の科学叢書)」の二冊目として刊行したわけですが、野生の科学研究所は科学をハイブリッドにすることを、一つの目標としています。人工と自然性のハイブリッド状態の科学をつくる。それは自然科学だけでなく、人間の科学に対してもそうです。経済学が当面の相手です。『資本論』自体がまだハイブリッド構造になっていない。経済学も含めて、「ハイブリッド人文科学」というものをつくっていかなければいけない。記号のことばかり考えていないで、ドゥルーズのように「動物になる」ことを真剣に追求する人たちが、あらわれることを期待しています。「野生の科学叢書」も第三弾以降、一風変わったものを次々と展開していきたいと思います。

初出:図書新聞(2014年6月14日、3162号)

掲載のご了解をいただきました図書新聞さんに、この場を借りてお礼申し上げます。
どうもありがとうございました。

 


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