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「贈与の哲学 ジャン=リュック・マリオンの思想」第3回 キリスト教と贈与 レポート

2013/11/20

明治大学 野生の科学研究所 公開講義

贈与の哲学 ジャン=リュック・マリオンの思想 第3回 「キリスト教と贈与」

10月18日(金)、岩野卓司教授によるジャン=リュック・マリオンの贈与哲学研究会 第3回が行われました。現象学、形而上学の観点から贈与を探求した第1回と第2回に引き続き、最終回となる今回は神学的アプローチで贈与を分析し、マリオンの醍醐味とも言える哲学とキリスト教のあわいの思想に迫ります。

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1. 神の死

まずは、ニーチェの「神の死」の衝撃以後、20世紀において神や宗教がどのように考えられていたのか、マリオンがそれを受けてどのような論を展開していったのか、この時代の様々な思想的「終焉」を見ていきましょう。
まずニーチェによる神の殺害論、これは「喜ばしき知識」(1882)の中で狂人による演説(「我々が神を殺した!」)として語られるもので、人々が神を信じなくなったことと解釈されます。これは大変な影響を及ぼし、人間概念自体の終焉を論じたミシェル・フーコーの「人間の終末」や、ロラン・バルトのテクスト論「作者の死」といった著作が現れます。
同じくニーチェの「偶像の黄昏」は、ヨーロッパの偶像を再検証したもので、宗教的な偶像崇拝から著名人を偶像化する世俗的な崇拝までが、批判されています。これは神の終焉の別形態とみて良いでしょう。
最後は、これまでの講義で扱ってきた形而上学の終焉です。原発など近代西洋における諸問題を考えるのにヨーロッパの思想のベースであった形而上学というものの考え方自体を見直そうという動きでした。

このように神や人の定義が大きく揺らぎ始めた時代でしたが、マリオンが導きだした見解は「定義上神の死はあり得ない」。理由は簡単で、聖書では神は不死とされ、キリストも死後復活しているからです。ニーチェの「殺された神」とは道徳神に限定されているのだ、とマリオンは考えました。この道徳神の死、形而上学上の神の死は、言い換えれば偶像としての神の死でもありました。

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2. 偶像(idole)とイコン(icône)

マリオンは、偶像を「まなざしがつくるもの」とし、見えない真実を見えるものに矮小化したものと定義しました。また「偶像は鏡である」と論じ、神や英雄などあこがれの対象に理想像を押し付けて、自分と同一視しようとすることもまた偶像化であると批判しました。これは現在のアイドルの考え方にも近いものがあります。
更にマリオンは、神について概念を与えるということ自体も、一種の偶像化であると見なしています。それらはすべて神を手が届くところまで引き下げていると考えられるからです。
その一方、イコン(聖画像)は、不可視のものを不可視のものとして描いており、見えざる神への通路になりうるとされました。見えないものを見えるよう描くのは見えざる力(神)が我々にそうさせているからであり、見えるものから出発して見えない次元まで遡ってゆくことができる、というのがマリオンの論です。この偶像とイコンの違いが導くのは、神と人間との距離の問題になってきます。

 

3. 距離(Distance)

神との距離を偶像は縮め、イコンは尊重する。この距離をマリオンはどのように考えていたのでしょうか。
一般的に神は万物から超越するとともに、あらゆるものに内在している「遠いけれど身近な」ものと考えられています。この距離の問題を考えるのが中世神学ですが、その中でも神を肯定する肯定神学、語り得ないものを問題にする否定神学にわけることができます。つまり前者が「神は善である」と定義するならば、後者は神を「(人間の定義による)善ではない」とします。
この二つは性質上混ざりあうことはないのですが、5世紀の帝国ローマ時代のディオニシウス・アレオパギタ(偽)という神秘主義者は、肯定神学・否定神学の二つの道を示し、マリオンに影響を与えました。

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肯定の言葉(である)も否定の言葉(でない)も結局は神との距離を近づけてしまい、存在に関する言語では神を表すには不十分。ディオニシウスは肯定と否定、二つの作業を通して神に対する呼びかけ(賞賛)をしていたのだ、と彼は分析し、ここから存在なき神という考えが展開していきます。

4. 存在なき神

これまでの形而上学(存在神学)では神を至高の存在者と考えていました。その存在としての神の代表はトマスアクィナスのESSEですが、これは聖書の中の記述(神は「ありてあるもの」)が論拠となっています。また第1回でみたハイデッガーの「神=存在者」論に対して、マリオンは「神が存在に従属してしまっている」と批判しました。
一方13世紀の神学者ボナヴェントゥラはディオニシウス(偽)を再評価し、存在としての神よりも「善」としての神を主張しました。しかし、マリオンにとってはそれすら不十分で、神の名前として愛と贈与の重視を唱えます。これは神の名前としては、「存在」や「善」と比べ形而上学ではあまり強調されてこなかった点です。
無償の愛、無条件の与えこそが神であり、与えるために神は存在する必要すらない―このように考えたマリオンは、愛して与えるという神の性質を全面に押し出していきました。

 

5. 聖体の秘跡と時間論

更にキリスト教の儀式から、贈与される時間について考えていきます。カトリックの儀式にパンと葡萄酒を食べ、キリストの魂をとり入れる聖体拝領という儀式があります。これは食べるということを通した神との交わりの儀式と考えられ、カトリックでは重要なテーマとなっています。
しかしマリオンは、この儀式でキリストが現前したとしても、神との交わりは体験という「現在」だけでは捉えられないのではないかと疑問を抱きました。キリストの死という過去の出来事と、キリストが再臨するとされるこの世の終末(未来)、この二つから現在を考えることができるのではないか、と指摘したのです。
今までの時間論はハイデッガーの通俗時間概念といい、ものの動きから経過=時間を知るもので、空間との対比によってのみ表現されていました。
この「今」中心の考え方は、神を永遠の現在とするキリスト教にとって都合が良かったのです。マリオンは「生まれた過去と死ぬ未来から現在を考えるべきだ」とするハイデッガーの影響を受けつつも、現在は神の贈与の結果であるという結論にたどり着きます。この神の贈与から見た時間論は、カトリックを支配していた形而上学に終焉をもたらすという意義がありました。

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6. 「キリスト教の哲学」:発見的思考

最後に、前回少し触れたキリスト教と哲学の関係について、マリオンの考えに触れます。一般的にキリスト教の哲学は背理と言われ、信仰と思索は峻別されるべきとされていました。近代哲学は神について合理的に分析することが許されるが、聖書の解釈まで踏み込んでは駄目、というのがひとつのスタンスであったからです。
しかしマリオンは、曖昧な聖書の記述もふまえ新しい発見をすることは良いのではないか、自然現象だけを発見することが近代哲学ではなく、更に啓示の分野まで踏み出すべきなのではないか、と主張しました。その手法としてマリオンが唱えたのは「発見的思考」です。これは情報が揃っている状態で、それを包括する概念がはっきりしない時に、手探りで共通する概念を発見していくというもの。この考え方で聖書の記述から何らかの真理―「慈愛(Charité)」の秩序を探ろうとしたのでした。
「慈愛」の秩序はパスカルの世界秩序の定理から引いたものですが、マリオンにおいては神の贈与のニュアンスが含まれています。
そしてマリオンは、贈与が慈愛のレベルで理解できれば、最終的に形而上学も啓示神学に移行できるんじゃないか、というひとつの推論に至ったのでした。

7. おわりに

ある意味とても純化され、神秘的な要素も兼ね備えたマリオンの贈与論。
ですが、ただ与えるだけという問題設定は、資本主義経済原理以外のものが見えづらくなっている現代においてますます重要なものと考えられます。この問題が野生の科学研究所でこの先どう扱われるのか、例えばバタイユの太陽の贈与の考え方など様々な接点の可能性が浮かんでくるのではないか、と岩野先生は語り、全3回に及ぶ研究会最終日を締めくくりました。

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岩野先生、どうもありがとうございました!

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