「贈与の哲学 ジャン=リュック・マリオンの思想」第2回 デリダVSマリオン レポート
2013/10/18
明治大学 野生の科学研究所 公開講義
贈与の哲学 ジャン=リュック・マリオンの思想
第2回 デリダVSマリオン
9月17日(水)野生の科学研究所にて、岩野卓司教授による公開連続講義「贈与の哲学 ジャン=リュック・マリオンの思想」第2回目が行われました。前回に引き続き、様々な分野の学生、研究者、一般の方、たくさんの方にお越しいただきました。
今回の講義では、ジャン=リュック・マリオンとその師でありライバルであったジャック・デリダとの贈与論争をひも解き、各々の考え方の本質に迫ります。
1. 前史
本論に入る前に、まずはマリオンとデリダの関係のおさらいです。
フランスのエリート教師を育成する高等師範学校で、マリオンはデリダの教え子でした。
彼は学生時代には特に師デリダに関する手記は残していません。
しかしハイデッガーの贈与論・形而上学批判を批判的に継承したマリオンには、同じくハイデッガーの影響を受けつつ独自の論を展開するデリダをどう乗り越えるのかという課題がありました。
2. デリダによる現前の形而上学の脱構築
デリダ独自の贈与論のベースには、現前の思想、現象学的見地ではないところで贈与の問題を捉えるという考えがありました。現前(present)とは、「今」「ここにある」というニュアンスを持った単語で、近代ヨーロッパ思想、とりわけ現象学の基礎となっています。また、アリストテレス以降哲学の根幹とされているものに形而上学というものがあり、「時間」「主体」「二項対立」など、私たちの思考の基盤とも言える概念はここから来ています。ハイデッガーは、形而上学において現前が特権化され真の存在を隠してしまっていると批判しました。この「現前の形而上学批判」をデリダは継承発展させ、その根本には文字言語(エクリチュール)に対する表音言語(パロール)の優位があることを導きだしました。これは「神の言葉」「良心の声」などに見られるように真理を伝達するのは話された言葉である、ということです。話し言葉には話者の存在が必要で、それはつまり「現前=現れ」と結びついているとデリダは解釈しました。しかし彼はパロールの優位性に対しアンチテーゼを唱えることはせずに、両者を支配する根源的な「原エクリチュール(archi-ecriture)」という概念を持ち出します。これはエクリチュールと似た性質をもつものの、「現前しない痕跡」として、現れたとたん抹消されるものと考えられています。このようにして、デリダは既存の思想の「解体」「構築」が同時に起こる「脱構築」をはかったのでした。
3. デリダ:贈与の不可能性
それではいよいよデリダの贈与論に入っていきます。『時間を与える』というテキストで、デリダはエコノミー(経済)の問題を考えました。エコノミー(ギリシャ語でオイコノミア)は、オイコス(家)とノモス(法)からなる単語であり、財の交換/循環というニュアンスがあります。「出ていったものが必ず帰ってくる」円環のモチーフは、哲学においても重要なイメージとなっています。この円環は「贈り物をしたら相手から同等以上のものが帰ってくる」というモースの循環的な贈与交換論にも見られますが、デリダはこれを贈与でなく交換であると批判しました。彼の考える真の贈与とは、受贈者が返報をしない贈与、つまり贈与に気づかない贈与を指します。「贈与は贈与として意識に現前しない限り贈与となりうる。」—このように「現前の形而上学の脱構築」と「贈与の不可能性」はセットの論なのです。
4. マリオン:「贈与(don)」から「与え(donation)」へ
対するマリオンの主張は第一回目の講義でたどったように、フッサールの「還元」を推し進めた「与え(donation)」の考え方です。この考え方を通して、経済の現象や所与、贈与の根源に「与え」を認めていきました。
5. マリオンの問題提起とデリダの回答
以上、両者の主張を前提にして、マリオンとデリダの論争をみていきましょう。
直接対決の場はアメリカのヴィラノヴァ大学で行われた「贈与について」という主題での討論でした。まずデリダに対するマリオンの問題提起は「贈与をなんでもかんでも交換に帰着すべきではない。」というところ。デリダが受贈者に気づかれる贈与は贈与ではないとする一方、マリオンは贈与者・受贈者が贈与と認めない場合や、そもそも不在である場合、また対象なき贈与(対象物よりもその象徴が重視される場合)の可能性を示し、贈与者・受贈者・贈与が還元できることを主張しました。この「還元」から「与え」の現象が見えてくるというのがマリオンの変わらない姿勢です。
対するデリダの回答は「贈与がただ不可能だと言っている訳ではなく、(忘却された次元で)不可能な経験としての贈与はある」というもの。「しかし同一化によって捉えられないのなら、贈与の現象学は不可能」として、マリオンの現象学的贈与解釈とはまったく反対のスタンスをとっています。
しかし、岩野氏はここでマリオンの「根源的な与え」とデリダの「純粋な(忘却の中での)贈与」の中にはとても近い側面があると指摘します。それはどちらも主体(贈与者・受贈者)には捉えきれない次元を追求しており、結局は「現前しない」贈与を問題としているからです。ここで補助線として、両者に影響を与えたハイデガーの論を振り返ってみましょう。彼の晩年の著作「顕現せざるものの現象学」では、この「顕現せざるもの」とはハイデッガーにとっての「存在」であり、デリダにおける「贈与」、マリオンにおける「与え」でした。つまるところ、現象学は現れの否定(現象学であることの否定)であることからしか成立しない、一種のアポリアだという問題がでてきます。
同じ地平をたどりつつ両者の意見が対立しているように見えるのは、デリダは言語を通してものを考え(アプリオリ)、マリオンは経験を通して考えている(アポステリオリ)からではないか、と岩野氏は分析しています。
6. 対立点:論争で提出された問題の中から二点
さらに、この議論の中で扱われた興味深い論点を二つ取り上げてみます。
1つめは「コーラ」。プラトン著「ティマイオス」に登場する言葉で、神が世界を作る前の絶対的に普遍的な「場」と説明されています。デリダはこれを分析しながら「痕跡」「刻み」など、現れないけれども空間を成立させるものとしてこの「場」を考えました。フランス語では、Avoir Lieu (場を持つ)=「出来事が生じる」、Donne Lieu(場を与える)=「出来事を引き起こす」という言い回しがあり、彼はこの言語学的分析から、場所という概念の重要性をコーラ論と結びつけたのでした。
コーラは空間や知識、贈与を可能にさせるものとしての「場」であり、概念装置として回収されない根本的なものだとデリダは主張しますが、これに対しマリオンは、この根源的な「場」はなぜ、脱構築の対象であることを免れているのか、という疑問を呈しています。
もう一つは、啓示(Offenbarung)と開示(Offenbarkeit)の問題です。キリスト教の重要な考え方の一つに「啓示」というものがありますが、この「啓示」を成立させるものとして「開示(啓示性)」という哲学概念があります(デリダの定義による)。この二つの対比の問題は、哲学そのものの問題にも関わってくる大変重要なものです。例えば、キリスト教徒にとっては、神の「啓示」が「開示」という哲学概念よりも先行していると考えるのが自然でしょう。一方でハイデッガーはキリスト教の「啓示」に哲学的概念の「開示」が先行すると主張します。果たしてどちらかが「根本」であると帰着させれば良いのか、この論争の中でデリダは「確信していない」と明言しています。神学的発想で現象学を発展させたマリオンは「与え」を根源とする一方、神の啓示というキリスト教概念も重視していました。
ここでいくつかの疑問が浮かび上がります。「開示」「与え」「コーラ」、その他今まで論じてきた様々な哲学概念は、本当に宗教概念に先行にするものとして考えてよいのか。言語や歴史、経験諸科学や宗教の影響を受けない普遍的な哲学があるのか。逆に普遍的な哲学概念は無いと言い切れるのか。
平行線をたどるかのような二人の論点は、哲学自体の本質を問う大きな問題と結びついていたのでした。
この贈与をめぐるキリスト教と哲学の切実な問題は第三回研究会に続きます!