天才・南方熊楠が見ていたもの
2016/08/27
このたび、中沢所長が第26回南方熊楠賞を受賞し、2016年5月に田辺市にて授賞式が執り行われました。その受賞記念インタビューが、『週刊現代』(講談社)の2016年5月28日号に掲載されました。今回は『週刊現代』編集部さんのご厚意により、インタビューを転載いたします。
欧米のマネでは価値がない
私が南方熊楠を知ったのは、中学生の頃です。民俗学者だった父の本棚に、著者の名前が難しくて読めない本があった。それが熊楠の本でした。子供はヒーローに憧れ、「こんな人に自分もなりたい」と思うものですよね。私はナポレオンや織田信長にはまったく惹かれませんでした。しかし、熊楠の伝記を読んでみたら、「日本にこんなすごい人がいたのか」と、すっかり夢中になってしまったのです。
本誌(掲載された週刊現代のこと)で『アースダイバー 神社編』を連載中の、明治大学野生の科学研究所所長・人類学者の中沢新一氏に、5月7日、南方熊楠賞(人文部門)が贈られた。日本の歴史に残る博覧強記の天才学者・南方熊楠にちなむこの賞は、熊楠が後半生を過ごした和歌山県田辺市の「南方熊楠顕彰会」が主催する学術賞だ。熊楠に強い影響を受け、人類学の世界へ足を踏み入れた中沢氏。「奇人」と評される熊楠は、その生涯で何を成し遂げたのか。
熊楠が特に優れていたのは、「西欧近代文明という脅威に、日本はどう立ち向かうべきか」というビジョンを示した点でしょう。司馬遼太郎が『坂の上の雲』で描いたように、明治の日本人の多くは、「最新科学で武装した欧米列強をまねて、オレたちも強くなろう」と考えていました。しかし熊楠は、軍事力を背景にした帝国主義には何の価値も見出さなかった。「日本人が目指すべきものは、もっと別のところにある」と直感していました。欧米に留学した明治の日本のエリートたちは、最新の学問を学び、日本に持ち帰るということにかけてはお上手でしたが、熊楠はそれにも興味がなかった。欧米人と同じ土俵で戦うのは簡単だが、気に食わない。日本人は、欧米とは違う独自の思想を生み出し、それをグローバルに発信することができるはずだ――こう熊楠は考えた。そして私は子供ながら、その考えに深く共感したのです。
熊楠は、しばしばレオナルド・ダ・ヴィンチと比較されます。確かに「万能の天才」という点では共通しているかもしれませんが、未来志向でクールなダ・ヴィンチよりも、私は熊楠の思想のほうが、あたたかく、人類の心や文化の深いところを見据えていたと感じます。熊楠の頭脳の優秀さは驚異的でした。英語・フランス語・ドイツ語・スペイン語の学術書を読みこなし、論文を書き、世界各国の第一線の学者たちと議論をたたかわせた。ラテン語やギリシャ語、サンスクリット語など、読み書きできたものまで含めれば18ヵ国語を操ったといいます。
「映像記憶」といって、一度目にしたものを写真のように脳に焼き付けて覚えることもできました。小学校の頃、友人の家にあった全105巻の百科事典『和漢三才図会』を、その家に通って覚え、自宅に戻って書き起こすというやり方で、ついに全て筆写してしまったという逸話は有名です。
一方で熊楠は、庶民と深く交わり、話を聞くことが何より好きでした。「民話や伝承を集めるには銭湯がいいんだ」と言って、地元の人たちと一緒に風呂に入りながら、「こんな話を知らないか」と聞いて研究材料を集めていたそうです。
「下ネタ」が大好き
熊楠はシャイな性格でしたから、いつも酒とタバコが欠かせませんでした。ヘビースモーカーで、大酒飲みだったのです。
1913年、同時代に活躍していた民俗学者の柳田國男が、熊楠の住む田辺を訪ねました。農商務省の高官だった柳田は、三つ揃いに山高帽、ステッキに口ひげという出で立ちで、出迎える田辺の人たちも緊張しています。しかし熊楠は、前の晩からしこたま酒を飲んでいて、柳田が来たときにはグデングデン。かいまき(はんてん)を被って、その隙間から顔だけ出して話をするのですが、全然ろれつが回らない。緊張のあまり、飲み過ぎてしまったんですね。また、マジメでエリートの柳田は、手紙や論文で熊楠があけすけに「下ネタ」を書くことに、引いていた節があります。しかし、熊楠は人間という存在の全体をとらえようとしたので、「セックス抜きの人間観」というものを信じていなかった。その点、政治経済からセックスまでカバーする週刊現代は「熊楠的」な雑誌と言えます(笑)。
性に関することの中でも、熊楠は特に同性愛や「ふたなり(両性具有)」に強い関心を持っていました。「ふたなりの人がどこそこにいるらしい」と聞くと、急いで会いに行って、「着物をめくって見せてくれ」と言う。性というと、男と女の2つの極があるものだと思われているけれど、本当は両者の中間にこそ真理がある。それが現実に現れた存在がふたなりである、と考えた。後述しますが、これは熊楠の思想全体をつらぬいていた考え方でもあります。
男前の熊楠でしたが、40歳で結婚するまで童貞だったといいます。熊楠は、25歳から32歳までの間を大英博物館に出入りして過ごしました。女性に目もくれず勉強するというのは、熊楠が学んだイギリスの学者の伝統です。しかし、留学から帰って紀伊の熊野に居を構えた熊楠は、さまざまな意味で人生のフェーズを切り替えました。結婚した後は、性の研究にもますます熱心になり、妻とどんな体位でセックスしたかを毎回記録していたそうです(笑)。
生と死は渾然一体
家族は持ったものの、熊楠には経済力がありませんでした。「オレくらいの学者なら、パトロンがいて当然だ」と思っていたから、酒屋を経営している弟に生活費を出してもらって研究することに、
何の呵責も感じていなかった。金を稼ぐために研究を中断することのほうが時間のムダで、愚かだと考えていました。買いたい本があると、妻に「明日から、ニラの味噌汁だけでいい」と告げる。着るものも食べるものも切りつめ、寝る間も惜しんで本を読む。熊野の山中に出かけては何日も帰らず採集に没頭し、帰ったら三日三晩徹夜で研究して、バタッと倒れ込んで眠る。まるで脳のリミッターが外れていたかのような精神力と体力です。
熊楠は、日本人として初めて「エコロジー」という概念を提唱したことでも知られています。ただ、熊楠が言う「エコロジー」は、現代人の「環境保護」という考え方とは大きく異なります。
先ほど、熊楠はものごとの「中間」を重視したと述べました。熊楠は、仏教の「相(そう)即(そく)相(そう)入(にゆう)」という概念を使って、自身のエコロジー思想を組み立てています。これは、「人間と動植物のあいだに断絶がなく、両者が互いの中へ入り込んでゆくような状態」を指す言葉です。
古代の人々は、トーテミズムといって、「自然界の動植物と私たち人間には、深いつながりがある」という思考をおこなっていました。「熊楠」という名前も、動物の王者である熊と、植物の王者である楠(くすのき)から取られている。熊野周辺には、こうしたトーテミズム的な名前を持つ人が多かったのです。熊楠も、熊と楠が自分と深くつながった「トーテム」であり、さらにこのトーテムを通して、自然全体とつながっているという意識を常に抱いていました。ですから、熊楠は「森の木が切り倒されるのは、自分の体が切り刻まれるのと同じだ」と感じていたわけです。
近代文明は、こうした考え方を理解できず、未開で野蛮な思考だととらえました。明治政府も、日本人を均質化して強い国を作るために、神道を国民道徳の基盤に据えようとしました。結果、小さな祠や道祖神などは「淫(いん)祠(し)邪教」と弾圧され、潰されて、大きな神社へ合祀されることになった。熊楠はあらゆる研究・執筆を中断して、この動きに猛反対します。柳田の協力もあって、この政府が目論んだ神社合祀はやがて沈静化しましたが、熊楠が住む和歌山県でも、多くの小社が消えてしまいました。
このとき熊楠が主張した「エコロジー」は、現代の私たちが知る欧米の近代文明が生み出した「エコロジー」、つまり人間と自然を別物と考えて、人間が自然を一方向的に守るのだという発想よりも、はるかに大きな射程を持っていました。もうひとつ、熊楠の思想を語るうえで欠かすことができないのが、彼の粘菌に関する研究です。粘菌は、森の中の湿った場所で暮らしていて、周囲の環境がいいとアメーバのような姿になって移動し、環境が悪くなると植物のように根を張って胞子を飛ばし繁殖する。いわば、動物と植物の中間のような生き物です。熊楠は、粘菌の中に「生命の本質」がひそんでいると考えました。粘菌という生物は、動物的でもあり植物的でもある。さらには、生きているのか死んでいるのかさえも定かではない。ここに熊楠は、先ほど言った「相即相入」――つまり、動物と植物、生と死が渾然一体となっているという、生命の哲学的な本質が現れているのではないか、と考えたのです。
私たちが暮らしている近代文明は「ロゴス」、つまり、言葉で言い表すことのできる論理によって動いています。ロゴスの論理においては、生と死は決して重なり合わないし、動物と植物は別の生き物です。ロゴスは言葉を順番にたどっていけば、必ず理解できる。「整理」や「秩序」の論理と言ってもよいでしょう。しかし、仏教や古代ギリシャの思想には、もうひとつ「レンマ」の論理というものがありました。言葉では世界の本質はとらえきれない。世界は多次元的に複雑に動いているのだから、時間軸に沿って整理するのではなく、直感的に、全体を一気に把握する必要がある。これがレンマの論理です。「悟り」と言ったほうが分かりやすいかもしれませんね。
どんな地位も求めなかった
イギリス留学から戻った熊楠は、那智の山中に3年間こもって粘菌の研究に没頭しました。この時期に書かれた書簡には、このレンマの論理が爆発するように噴出し、書き記されています。私はこのときの熊楠の思考こそ、近代日本における天才的で、最も画期的な思考だったと思います。今でも科学はロゴスにもとづいていますが、実は量子力学や宇宙論、脳科学といった最先端の分野では、ロゴスだけではうまくいかないということが分かってきています。熊楠は、熊野の山中にたった一人でこもっていたにもかかわらず、その事実に気付いていたのです。彼以外には世界中で誰も、このことに気付いた人はいなかった。これは現代社会を生きる私たちにとっても、とてつもなく大きな知的遺産です。
熊楠は1929年、生物学を学んでいた若かりし頃の昭和天皇に進講し、粘菌について講義をしています。彼は指名を受けたことをとても光栄に思い、フロックコートを仕立て直して、万全の準備を整えて臨みました。生涯どんな地位も求めず、大学組織にも属さなかった熊楠が、なぜ天皇に頭を下げたのか。きっと熊楠は、天皇が日本の国土や自然と「相即相入」の関係にある存在だと考えていたのでしょう。草木も動物も人間も、ずっと昔からこの列島で一体になって生きてきた。天皇もその一員であり、またその全体性を象徴する存在でもある。そういう理念に対する自然な尊敬の念を、熊楠は抱いていたのだと思います。
今では、エコロジーを語るにも、国家を語るにも、何かと「政治」が付きまといます。しかし、熊楠は右翼とか左翼とか、そんな表面的な区別にとらわれてなどいなかった。熊楠の思想を見直して、彼が残した芽を大木に育てたい。今を生きる日本人にこそ、それが必要だと私は思っています。