公開研究会「『対称性』の扉を開く」:第2回「純粋贈与と子どもの心」レポート
2016/01/22
2015年12月13日(日)、野生の科学研究所にて、公開研究会「『対称性』の扉を開く」の第2回目が開催されました。今回は京都大学より矢野智司先生をお招きして、子供の心と人間学という視点から「対称性」についてお話しいただきました。
「純粋贈与と子供の心」/矢野智司
子供の世界と絵本
子供は長い間、人間と人間でないものの境界線にいる存在だと考えられてきました。雑駁にいえば、子供の動物性を克服して人間にするのが、近現代の教育目的だったのです。しかし、人間でもあり人間でもなく、動物の世界にも越境できる子供の教育について考えることは、あらゆる境界線の問題に深く関わります。それは、人間とは何かと考えることでもあると矢野さんはいいます。
人間は人間の本性を理解しようとする時に、絶えず動物と自分たちを比較してきました。進化論の登場で改めて人間とは何かを考えるのですが、定義を厳密にしていけばいくほど、人間にあらざるものとの分離は難しくなり、境界線にいる子供が浮かび上がってくるのです。例えば、人間は言葉をしゃべるものと定義すると、子供は一体何処に分類されるでしょうか。20世紀に入ると、ユクスキュル(1864-1944)が動物学を発展させ、生き物それぞれが厳密な環境世界に生きていることを明らかにしました。より高度な形で人間が動物の中に位置づけられ、哲学者たちは境界線を再び考え直すことになります。子供は大人とは違う世界に生きているという視点から、ランゲフェルト(1905-1989)の「教育人間学」も生まれました。矢野さんの研究は広い意味でこの学問上に位置します。
子供とは何か、と絶えず試行錯誤しながら、大人は子供が好む遊具などのメディアを作り変えてきました。中でも絵本というメディアを介して、大人は子供の心を考え、子供は心に触れる付き合いを学びます。子供が好きな絵本の反復を喜ぶのをみて、大人は自分と子供の望むものの食い違いに気づくこともあるのです。
絵本『いないいないばあ』
『いないいないばあ』は580万部のベストセラーです。この絵本を持つことで未熟な親でも子供に向かい合うことができます。無いものが出現するという、この絵本は恐るべき哲学を含み、面白い問題をはらんでいます。なぜ最初が猫で次にネズミ、クマ、狐、最後が人間なのでしょうか。赤ちゃんが最初に出会う絵本は、たいてい動物が出てきます(「ミッフィー」や「うさこちゃん」など)。
多くの絵本には、他者(動物)との交感や歓待と贈与の体験、つまり対称性の思考が含まれています。歓待の大きなテーマは食事を与えること(「ぐりとぐら」のケーキの話など)ですが、食べることで幸福感を生む、子供はそんな絵本が大好きなのです。食事に象徴されるように、受け入れるということに対して子供の生は防衛が低く、何処までも自分を開いていくことが可能です。世界を自分の中に入れ学習できるように、根本的に開いているのです。子供が傷つきやすいのは、開いていることの表裏です。そのような子供という生のあり方を、人類史の課題と結びつけて、生命論的な次元から捉え直すことが必要です。絵本の中で、大人が絶えず子供に向かって作り出してきた、一般に優しさや親切という言葉で表されているものは、人と人が関わる世界の贈与や歓待として理解するほうが、ダイナミックで深いのだと矢野さんはいいます。
純粋贈与と贈与のリレー
『しんせつなともだち』は中国の民話をもとにした絵本です。この本は、次のようなあらすじです。
〈雪がたくさん降り、食べるものが無くなったウサギは食べ物を探しに出かけカブを二つ見つける。一つは自分が食べて、後の一つを食べ物に困っているだろうロバに持っていくが、ロバもまた雪のなか食べ物を探しに出かけていた。そこでウサギはロバの家にカブを置いて帰る。ロバはサツマイモを見つけて戻ってきてカブを見て、どこから来たのか不思議に思うが、雪が降る寒い時にヤギはきっと食べるものがないのではないかと考え、カブをヤギに持って行く。カブは、ロバからヤギへ、ヤギからシカへとめぐり、最後にはシカからウサギへと戻ってくる。ウサギの睡眠中にカブは家に残されて、ウサギは「ともだちがわざわざもってきてくれたんだな」と思う。〉
子供の絵本ですが高度な内容です。最初に、ウサギが何者かから二つのカブを与えられる「贈与の一撃」があります。置いておけば腐ってしまう食べ物が、ウサギやロバたちを動かし、友人たちの間を一周して、もとの持ち主のところに戻ってきます。ここで人類学でいう交換は行われていません。カブが一周するうちに、最初と違うものが生起しています。命を永らえるための食べ物を、わざわざ持ってきてくれたことにそれぞれが感動しているのです。誰も所有せずに、贈与のリレーのようなことが行われています。「誰か」が「誰か」を気にかけ、また気にかけられていることを知る、「与える」というケアの特徴を見ることができます。
ポイントは「持ってきた」です。ほかのことに使うこともできたはずの「時間」を与えているのです。生命体は必ず死ぬという有限性の中で、自分の時間を与えることは命を与えることと同じです。そう考えれば、どんなケアも贈与的なものを含むといえるでしょう。時間が含まれているものは等価交換になりません。訳の分からない過剰なものを内包するからです。考えてみると、私たちの命も、私たち自身が自分で生み出したものではありません。この存在は親によって与えられ、親はその親から、その親はまたその前の…と、過去の「多くの誰か」(他者)の存在に行きあたります。私たちの命そのものが純粋贈与されたものなのです。
絵本 『わすれられないおくりもの』
『わすれられないおくりもの』という絵本には、「教える」ことについて描かれています。
〈年取ってあちらの世界に行ってしまった(死んだ)アナグマが何を遺してくれたかというと、(切り紙の仕方、スケート、ネクタイの結び方、ビスケットの焼き方など、)できなくても困らないができると楽しいことでした。動物たちは自分の工夫を加え、また次の世代に教えていきます。〉
贈与的な喜びが付随している行為を、最初に教えてくれたのは誰なのでしょうか。
小学生になると、メディアは少し複雑高度になります。『ごん狐』、『人魚姫』、『幸福の王子』のように、贈与が死と結びついてきます。単純にまとまってしまわない、人が何かと深い関わりを持とうとした時に残り続ける過剰な物語が、この時期の子供の心を動かすのです。12,3才頃になると、本の中には次第に動物が登場しなくなります。罪と罰や愛といった極限に迫る、幼児期とは違うハードな時期にかなったメディアとして、文学がこの時期には出現してくるのです。子供の成長に合わせて形を変えながら、多義的な人類の思想が伝授されています。
人類の基本思想
有用性だけが必要なら役に立つことを教えればよいのに、大人が最初に教えるのは遊び方です。モノを生き物に見立て会話する、土団子を持って「はいどうぞ。」「おいしかった。」と演じるなど、遊びはとても高度なことをやっています。土団子は土ではなく団子なのが遊びのルールですが、実際に食べてはいけません。仮想と現実を混同せずに遊べるのは、大人が対称性と非対称性を繋ぐバイロジックを教えているからです。かなり早い時期に対称性に軸足を置いた世界を教えているのが、実は大人であるというのは大変面白いことです。遊びはあらゆるものの原型であり、子供は大人の導きで、世界を多重に見る練習をしています。大人は教えながら、自分がかつて経験した対称性に生きる歓びを、もう一度子供の中に回復しているのではないでしょうか。
青年期には再び、文学、藝術などの対称性の知性に出会います。この二つの時期は人間の生に大変重要ですが、現代は脆弱になっています。不思議な対称性を学ぶ時間帯であった大学が有用性に引き寄せられ、幼児期も有用性や結果を求める傾向が強くなっています。しかし、遊ぶということを通して世界の奥深さを生きることは、ゲームや学習には置き換えることができません。自由と歓喜の体験が大切なのです。有史以前から人類が伝授し続けている対称性の論理は、分離や切断を乗り越える社会を生み出す時の礎となるものです。教育人間学は傍流と見られがちですが、人類史の基本課題を未来に結びつける切実な学問です。この視点をもとに、実際の幼児教育を変えていきたいと矢野さんは講義を締めくくりました。
質疑応答
教育に携わる方も多く、講義後に活発な質疑応答が行われました。話題の一つは「自己溶解」。自己が客体にたいして溶けていくような体験を作り出すことで、子供の豊かな知覚世界が初めて可能になります。芸術系を筆頭に各教科は自己溶解の可能性を含みますが、この領域は安易に創りだそうとすると大変暴力的になり、丁寧な準備をやっても問題が起こりやすいものです。しかし、これは優れた教師が連綿と実践を目指してきた、人類を真の知性に導く教育の主軸に関わります。
教育環境の変化も話題になりました。現代は家庭のほうにメディアが豊富で、学校の魅力が低下しています。子供の数が200万人から半減し、子供同士の出会いが減少しています。遊びの蓄積や伝授、子供集団の維持に影響が出ていること、「大人でありかつ心のなかに子供がいた」老人たちが消えていることなどが懸念されました。子供が集団に上る前に長い時間をかけて、遊び方や愛することを伝えてきた大人の役割を、改めて真剣に考える必要があります。
鼎談:対称性という心の座標軸/矢野智司さん・中沢所長・石倉敏明(コーディネーター)
二つ目の教育
教育現場では、知識を教える有用性の教師と、そこを突破した贈与の教師の二つのタイプが現れます。教師が効率的な役目を超えて、面白くてしかたがないことを子供に話してしまう時、その教師は、純粋贈与者として何かの極限を受け継ぎ、交換価値にはまらないものを伝授しています。教師がメディアを介して深いところに子供を連れて行く瞬間を作ってしまうことがあると矢野さんはいいます。
矢野さんが言おうとしているのは「善知識」ではないか、と所長は指摘しました。「善知識」とは、仏教で真の道理を教える人のことです。親鸞は、純粋贈与がいかにこの世に来るか、それを自分がどのような器となって受けるかを説きました。「妙好人」は浄土真宗では最高の悟りの境地ですが、普通の市井の人物、下駄屋さんだったりします。その人が日常の生活で無心に自分を開いていく中に、阿弥陀如来が入ってくるというのです。それを発見した日本人のセンスは素晴らしいと所長はいいます。チベット仏教では、一日中五体投地を行いふらふらになり、世俗の知識が外れるところにようやく真の教えが入ります。世界各地に残る修行やイニシエーションも、同じような伝授方法を持っています。
ツヴァイクが人類の歴史で「星が瞬く瞬間」があるといったように、交換的価値を超える教育の火花は、人生を変える瞬間を生みます。ブッダ、ソクラテス、イエスなどは、共同体の中での生を突破する、純粋贈与者としての人類の教師です。人類は、健康な知性でワイルドタイプを維持してきました。その遺伝子の型を崩さず伝え、同時に突然変異を受け入れる可塑性を持つのが、野生の科学です。この意味で、スコラ哲学やキリスト教とは違い、イエス自身は大変健康的です。イエスは確実にいい先生から伝授されて、みごとに純粋贈与に開いていると所長はいいます。教育は最も大切な伝達方法です。親鸞は見も知らぬ仏典の先生から学び、ブッダも自分の前に7人の先生がいたというように、人類の健康な知性を伝える普遍的教育が存在したのです。
創造の場所
対称性に出会う教育伝授の時期は、幼年期、青年期ともに義務教育の外です。幼児期は(教えすぎる弊害を除けば)自由で開かれていて、いろんな工夫ができます。哲学者シェリングやペスタロッチの影響を受けた、幼児教育の祖フレーベル(178-1852)は、Kindergarten幼稚園の生みの親です。幼稚園は、人間の発達の連続性を主張し精神革命の場所となりえました。遊びや作業を中心に、遊具や庭がある創造的場所で、子どもに内在している力を開くのは幼稚園の先生です。適切なメディアと導きがあることで、子供の生成と発達は実現していくのです。
絵本は、微妙に圧倒的過剰なものを孕むところがバタイユ的です。開放してしまうと絵本になりませんが、熊や狐など人間を超える悪と背中合わせの生き物は、純粋贈与の神として主人公になることが多いのです。『いないいないばあ』や動物の贈与も、見ようによっては凶暴な面があります。バタイユ専門の岩野さんは、バタイユは悪いところはあるが、そのままの形では出てきにくい、メタファーがあるといいます。優れた絵本は、人間の中にある、どうしようもなく人間を超えた悪を感じさせることさえあるのです。
子供の可能性
現在、哲学や人類学は新しい世界の創造を模索しています。中沢所長は子供時代に沢山の本を読んだことが通路を開き、後に宗教やその他の学問の入口になったそうです。大人の世間知と分別知は必ず限界があります。子供は無分別知との境界にいるので、そのラインを突破していくと、無尽蔵の無分別知が開かれる可能性があります。それは絵本児童文学に通じるところだと所長はいいます。
矢野さんはドクター時代に論文執筆に疲れ、友人が幼児教育を研究していた幼稚園に2ヶ月間通ったことがありました。子供と遊ぶ毎日が良かったといいます。3歳児が2ヶ月で全く違う人間になる様子や、それに欠かせない幼稚園の先生の存在を間近に見ました。まだ生まれて3年しか経っていない子供に、驚くほど自由な可能性を感じたそうです。子供は人類の未来を開く存在なのです。
幼児からケアまで人生を貫く話がたくさん飛び出し、対称性を伝えることが各段階で求められていることを実感したと、石倉さんは締めくくりました。3時間を越す充実した研究会となりました。