「哲学の夕べ-生きた貨幣-」レポート(後半):ピーター・サンディ「アイコノミーと視線」、鼎談「生きた貨幣」
2015/10/15
2015年5月30日(土)、アンスティチュ・フランセ東京で「哲学の夕べ-生きた貨幣-」が開催されました。長時間に及んだその模様を前半、後半に分けてレポートします。今回の後半部では、パリ第10=ナンテール大学の哲学科助教授であるピーター・サンディさんの講演と、中沢所長、サンディ氏、映画評論家の廣瀬純氏による鼎談の模様をとりあげます。
ピーター・サンディ講演「アイコノミーと視線」
中沢所長の講演に引き続き、パリ第10=ナンテール大学の哲学科助教授であるピーター・サンディさんの講演が続きます。思想的に出会うはずのなかったドゥルーズとベンヤミンが、「イナベーション」(神経分布網)という概念を媒介して出会う大変スリリングな内容となりました。
ゴダール『万事快調』が暴露するイメージと金銭の関係
サンディさんの講演は、ジル・ドゥルーズの『時間・イメージ』の中にある以下の言葉を引用することから始まりました。
金銭は映画が提示し、表側で築くすべてのイメージの裏側にあるのだから、金銭についての映画は、どれだけ暗黙にであっても、既に映画中映画、ないし映画についての映画である。
サンディさんによれば、ドゥルーズの引用に見られるこの構造は、ゴダールが1972年の『万事快調』の冒頭で明らかにしていることだと言います。ジャン=ピエール・ゴランとジャン=リュック・ゴダールの共同監督・脚本によるこの映画は、最初にタイトルが表示された後、一分半の間にカチンコの音と撮影シーン数を告げるボイスオーバーの男の声が繰り返されます。それに続いて、「11.5%は演出に、3,000フランが脚本に、6,600フランが撮影に、、、」などと書かれた小切手を小切手帳から一枚ずつ剥がしていくシーンが連続します。このオープニングは、映画における映像の裏側には常に金銭があることを暴露しているのです。
とはいえ最初の引用の直前にある「産業芸術(映画)を定義するのは機械的複製ではなく、内在する金銭の関係だ」というドゥルーズの言葉にも明らかなように、この関係は映像とお金の間に明示されない形で「内在化」されています。サンディさんは、この関係を示すために「アイコノミー」という造語を考案しました。この単語には「画像」を意味する「アイコン」と、「経済」を意味する「エコノミー」があることが分かります。
ブレッソン『スリ』におけるフィルム送り装置の構造
映画のアイコノミー的本性を知る上で、サンディさんはブレッソンの『ラルジャン』を取り上げたのち、同じくブレッソン監督の『スリ』(1959年)という作品に関して、後の鼎談にも関わる重要な分析をしました。それは有名なリヨン駅の列車の中で、主人公ミッシェルが共謀者とスリ行為に及ぶシーンについてです。
列車の狭い廊下は、両側がニ枚のガラスに挟まれています。客室コンパートメントに面する窓と、外に面する窓です。この廊下で主人公ミシェルが財布を抜き取り、それを共犯者へと手渡し、さらにそれをリレーしていきます。そして別の被害者が狭い廊下を通るときには、すれ違いを容易にするため身をよじって体を「平たく」します。そしてその一連の光景は、コンパートメントのガラスに映り込み二重化されています。
この一連の構造を、サンディさんは二枚のガラスの間にフィルムを入れて流す、古いフィルム送り装置と同じだと述べます。つまり廊下を通る財布(貨幣)やスリたちが、一種スライドのようにしてフィルム送り装置のガラスとガラスの間を横滑りし、そこから「シネモンド(映画世界)」が現れてくるのです。通りすぎるとき体を「平たくする」動作は、ブレッソンの「私はアイロンをかけるように映像を平たくする癖がある」という言葉と、「映像の価値は何よりも交換の価値でなくてはならない」という言葉から、イメージ(とその裏側にある貨幣)の「交換・流通」を容易にすることのメタファーと考えられるとサンディーさんは指摘します。サンディさんの発言をパラフレーズすれば、いわば「シネモンドはいかにして可能か」ということを示していると言う点で、この列車内は一種の「映画中現実」と化しており、金銭というものを媒介に外部世界(現実)が内部世界(映画)へとクラインの壷的に反転していると言えるのではないでしょうか。「映画の作品からその外へ、あるいはその逆方向へ移動するために、映像の間を滑るように見える金銭をつかもうとする」ような流通が、この『スリ』の列車内では描かれているのです。
ドゥルーズの「メタシネマ」と、ベンヤミンの「イメージ空間」と「イナベーション」
ドゥルーズにとって映画は映画以上のものだったとサンディさんは言います。なぜならばドゥルーズは『運動・イメージ』の中で、現実世界そのものを「メタシネマ」と見做すところまでいっているからです。ドゥルーズはベルグソンの『物質と記憶』をふまえたうえで、「世界は互いに作用し合い、反応し合うイメージの循環である」と語っています。ここから推論できることは、ドゥルーズにとっては、映画の外に映画がある、映画館の外に映画があるということです。
ドゥルーズ同様、ベンヤミンもまた、映画が映画自体から、映画館の外へ溢れ出す、延長されることを考えようとしていました。サンディさんによれば、ドゥルーズはベンヤミンをほぼ全く引用しなかったといいます。それどころか、ドゥルーズは最初にあげた引用の直前で「産業芸術(映画)を決定するのは機械的複製ではなく、金銭に対して内的となった関係である」とまで書いており、明らかにベンヤミンの「複製技術時代の芸術」に対する不信感を見せています。しかし、ここまで思想的にかけ離れているようにみえる二人が、「世界は完全にイメージで構成されている」と捉えている点では強く共震しているのです。とはいえ、ここで言う「イメージ」は世界の表象を意味しません。両者にとって、むしろイメージは世界の材料そのもの、その運動と生成であるとサンディさんは強調します。
ここまで話し終えると、サンディさんは「映画の外にある映画」を構成する力であるところの「イナベーション(innervation)」という、ベンヤミン独自の概念を取り上げます。これは1927年ころにベンヤミンの著書に現れるもので、おそらくフロイトから借用した用語です。サンディさんはこのイナベーションについて、要約的に次のように定義をしました。「「イナベーション」というのは、ベンヤミンにとっては直観的な、そして即時的な視覚の無意識的変換であるといえます。ですから猶予のない映像の遂行性であり、イメージ空間の中で起こるものにならって、意識的な主観的意図をそれぞれショートさせる効果を持ちます」。
つまり、「イナベーション」とは「イメージ空間」を形成する力であり、この「イメージ空間」はドゥルーズ的に言い直せば「メタシネマ」ということになるのだと考えられます。詰まる所、「イナベーション」とは「視線の映画化」であるということができます。
ムルナウ『最後の人』に見られる回転ドア(「編集」の始まりとしての)
この「イナベーション」の概念を実際に説明している映像として、ムルナウの『最後の人』(1924年)の「回転ドア」をサンディさんは取り上げました。
映画の冒頭、カメラはエレベーターに乗っていて、エレベーターはホールまで降りて行って、回転ドアまで辿りつきます。サンディさんは『運動イメージ』中で、ドゥルーズがこのショットに言及した箇所を引用します。
このショットでは、自転車に乗せられたカメラが、まずエレベーターの中に置かれて、絶えざる分解と再合成をおこないながら、エレベーターと共にさがりそして窓ガラスを通して大きなホテルの広間を捉え、それから「ただひとつの完全なトラヴェリングにおいて、玄関を通りそして回転ドアの巨大な扉を通って突っ走る」。このときカメラと、二つの運動が、あるいはエレベーターと自転車という二つの運動体あるいは二つの運動手段が連動する。カメラは、イメージの一部をなすエレベーターを見せることができるが、自転車の方は隠すことができる…。
ドゥルーズはエレベーターとカメラの連動に着目しましたが、サンディさんはドゥルーズが言及しただけの「回転ドア」というトポロジーが重要であると言います。なぜならこの回転ドアによって世界は「編集」され、視る人の「イナベーション」の力が喚起されるからです。
エレベーターも回転ドアも、ガラス戸を通して「視線の映画化」を可能にしています。エレベーターは各階を下がりながら、ガラス戸によって各階を「コマ化」し、映画化しているのです。ですからカメラがあろうとなかろうと、エレベーターは結局のところ視線の映画化を約束します。
しかしその一方で、回転ドアは運動や見えるものの流れを、エレベーターのように分解・再放送するだけではありません。回転ドアによって見るものの断片を切り取って、そしてその一つ一つが、映像の継続的な連鎖に繋げられています。回転はその断片を二重にし、ガラスの上の反映と言う形で持ち去っていきます。それはブレッソンの『スリ』の中の廊下のようだとサンディさんは言います。
そのために回転ドアもまた、運動中のイメージの断片の重層化を描き始めています。しかし回転ドアは結局、エレベーターのように単純に見えるものを運動的に変換するだけではないのです。回転ドアの方は、見えるものの映画生成そのものであって、それはいわば編集の始まり(ディゾルブ・二重写しの始まり)を導入しているとサンディさんは述べます。
「イナベーション」の現在形としての「アイ・トラッキング」
サンディさんは最後に、ある広告CMをピックアップして、「イナベーション」の現在形について語りました。2013年の5月16日にスイスのチューリッヒ駅で撮影された、「サムソン・ギャラクシーS4」のCMです。ある無料の日刊紙には以下のように記述されました。
通りがかりの人は、サムソン・ギャラクシーS4を、眼を使うだけで獲得することができます。新型スマートフォンを一時間見続けた人はS4を持ち帰ることができるのです。しかしそれは微かな瞬きだけで失格なので容易ではありません。
このスマートフォンは実際にユーザーの目の動きを検知することができます。上下左右のスクロールを眼でコントロールする「スマート・スクロール」という機能を持っています。サンディさんによれば、このアイ・トラッキングという技術によって、視線自体がここでは即座に、エレベーターあるいはエスカレーターになると言います。つまり視線が捉えたものが即座に動きを示すということであり、そこが〈運動=イメージ〉生成の場(メタシネマ=イメージ空間)となってくる、と語り講演は終了しました。
鼎談「生きた貨幣」
中沢所長とサンディさんの講演内容を引きうけつつ、映画評論家・廣瀬純さんがディスカッションに入る前、山中貞雄監督の『丹下左膳余話 百万両の壷』というフィルムに関して分析を行いました。その中から見えてきた映像の「背後性」というものが本鼎談のキーワードとなりました。
「背後から撮る」ということ
最初に廣瀬さんが、ピーターさんの講演に出てきた幾つかの鍵となるような引用を、中沢所長の「増殖的理性批判」の観点から読み直すことを試みました。ブレッソンとドゥルーズの以下の言葉が導入として再び引用されました。
一つの映像の価値は、交換価値でなければいけない。
映画において、映像というものは位置や関係において価値を持つ。だから映像には絶対的価値はない。
ーブレッソン
金銭は映画が提示し、表側で築くすべてのイメージの裏側にあるのだから、金銭についての映画は、どれだけ暗黙にであっても、既に映画中映画、ないし映画についての映画である
ードゥルーズ
これらの引用を提示したのち、廣瀬さんは、映画における映像の価値が「交換価値」となるのは、その映像が事物を「裏側(背中側)」から見せるときだという持論を展開します。逆に言えば、映像が「絶対的価値」となるのは、その映像が事物を「表側(正面側)」から見せる時だということです。廣瀬さんはこの考えを中沢所長の講演内容に引きつけ、純粋理性とは事物を正面から見ること、増殖的理性とは事物を背後から見ることであると述べます。
「背後」から撮られた壷
この「背後から撮る」という話の具体例として、廣瀬さんは小津と同世代の山中貞雄監督のフィルムを取り上げます。山中は、失われたデビュー作の『磯の源太 抱寝の長脇差』(1932年)で主演であり、映画の中心でもある俳優を「背後からの撮影」で映し、日本映画の転換を試みました。
背後からの人物撮影にとどまらず、さらに『丹下左膳余話 百萬両の壷』という映画では、事物すらも背後から撮りました。本作で背中から撮られるのは、何よりもまず百萬両の壷です。この壷はほとんど全てのショットに映されていて、壷を中心に全ての話が展開されます。しかし壷は一回たりとも「正面」から示されることはありません。山中はいわば真っ黒い、つるんとした壷を敢えて選んだところもあって、どこがその壷の顔なのか判然としないからです。そのため、いかなる「正しい映像」もありえないのであって、つまりその壷が確かに百萬両の価値があるはずだといういかなる映像もありえないのだと廣瀬さんは指摘します。
少年と壷の共鳴関係
この映画において、壷は毎回画面に登場するたびに、周りの事物と純粋に光学的な「共鳴」の関係に入ります。その壷の「共鳴」する力の具体例として、廣瀬さんは『百万両の壷』のあるシーンを取り上げます。安吉という少年が、陽の当たった縁側に、ちょこんと座っている。画面の奥の小さな庭を眺めています。彼は自分のお父さんが亡くなったことを丹下左膳から知らされたばかりです。同じショットの中で安吉の隣にあるのが例の壷ですが、安吉と同じように忘れられた形で、ほぼ同じ大きさに撮られている。このようにして、壷はいわば、静かに安吉と純粋に共鳴の関係に入るのです。ここで問題となるのは、壷の貨幣資本の自己価値増殖などでは勿論なくて、壷自身の自己価値増殖、単なる「もの」としての壷の「力」の増加と言うことができると廣瀬さんは言います。このようにして、廣瀬さんはドゥルーズが条件づけている表と裏の関係、つまり「イメージの裏に金銭がある」という関係を転覆しようとします。
百万両の壷は「クラインの壷」
中沢所長は、廣瀬さんの話の中に頻出した「壷」自体に着目しました。増殖的理性の発生のために必要なニューロンの組み替えによって、二つの異質領域が一つに繋がるという話を中沢所長は講演の際にしましたが、これは言ってみれば表と裏とコード化され、分離されていたものが繋がるという意味も持っています。表と裏が繋がるトポロジーは「クラインの壷」と呼ばれていますが、中沢所長によれば、百万両の壷とは詰まる所「クラインの壷」だといいます。この壷は壷の形をして中に何かを閉じ込めているように見えますが、これが実はクラインの壷状になっていて、外を内側に組み込み、内側を外側に出すという役割を担っているのだといいます。
カメラと映画の物質性
サンディさんからは「背後性」に関して鋭い洞察が飛び出しました。
サンディさんは廣瀬さんの提案する考え方の「映像で事物を正面から捉えたとき、映像に絶対的価値が生じる」という言い方には少し誇張が交っていると指摘します。というのも、映像がそのようであるときは、物はいわば背中のない表側だけの全体のようになってしまい、それは不可能な映像ということになってしまうからです。すなわち物を、まったく背後を持たない正面だけのものとなすことになり、それは単なる物自体となり映像ではなくなってしまうというのです。この「背後性のない物」という観点は、『リヴァイアサン』という映画を読み解く上でも重要なものとなります。
『リヴァイアサン』というハーヴァード大学の感覚民族誌学研究所が作った映画は、最大限に小型軽量化された、GoProというカメラ機材を使用することで可能となった映画表現でした。10台ほどのGoProが、メルヴィルの『白鯨』の舞台ともなったニューベッドフォードから出港した漁船に乗り込みます。そしてこのGoProだけが、意識もせずに、船の内・外へと自由に移動し、魚が海底から轟音と共に引き揚げられ、内臓を露出させながら捌かれ、ゴミとして要らない部位が捨てられる様子などを人間の視点を排して生々しく捉えていきます。この映像を見るとき、私たちの目は、そこに映る魚そのものになるのです。人間が自分の外に拡大する知覚の装置として付けたものが世界に対する新しいネットワークを切り開いていくという意味で、GoProは大変にベンヤミン的な革命のツールだと中沢所長は考えます。
この『リヴァイアサン』をサンディさんも見たそうなのですが、「どこまでドキュメンタリーと呼ぶに相応しい作品か」と考えてしまったそうです。というのも、そこで見えるものがあまりにも現実に合致していたからだといいます。サンディさんはこの映画の視点を、ジガ・ヴェルトフの「映画の目(ciné oeil)」(物質の中にある目)という言葉で表現しました。なぜなら、映画の観客としてここまで、文字通り「物質の中にある」という印象を受けたことはなかったからだといいます。水の中に入って、死んだ魚の層の中に入っていく、それは本当に一種の物質の中にいるような感覚で、粘々とした、ごちゃごちゃとした物質性の中に入って、時には耐えがたいような瞬間もあったといいます。
またこの映画の2つの暴力性にもサンディさんは衝撃を受けたといいます。まず非常に資本主義的な「漁業」という形態の暴力です。「その魚を採る網は、世界の海底をすべてかっ攫ってしまうような感じがします」とサンディさんは言います。
そしてこの暴力の裏にもう一つ別の暴力があるとサンディさんは考えます。それは目に見えないもので、ドキュメンタリーという装置自体に内在するものです。それはいわば絶えず目を別の目へと接続しようとする点です。サンディさんはこの映画を最後まで見ることが辛かったというのですが、それは視点を変えること、不可能な視点を毎回私たちに求めてくるからだったといいます。つまり物自体になる視点を我々に求めてくる暴力性であり、それはただそこに物があるように置いておくということです。それは我々自身が物であるかのように見ることであり、そこにもはや映像はないとサンディさんは語ります。すなわち映像に「背後」がなければ、そこに映像はないといえるのではないでしょうか。
以上で「第三回 哲学の夕べー生きた貨幣ー」のシンポジウムは終了しました。中沢所長とピーター・サンディさんの講演の共通見解である「イメージとその裏側にある金銭」というあまりに壮大な問題に対して、廣瀬純さんの提起した「映像の背後性」という言葉が中心軸となり議論は展開されました。貨幣が世界を牛耳っているこの現代社会で、我々はいかにしてものを考え、生きていかなければならないのか、そういったことについて深く考える契機となるようなシンポジウムとなりました。
(文:後藤護、野生の科学研究所)