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明治大学リバティアカデミー講座「日本人の魂の古層を探る」レポート(2):「古層学の方法」(中沢所長)

2015/09/25

野生の科学研究所に関わりの深い先生方が登壇する、2015年度明治大学リバティアカデミー講座「日本人の魂の古層を探る」。その中から、特に研究所に関わりの深い先生方の登壇回レポートをお届けしています。今回は、6月24日に開催された中沢所長の講義「古層学の方法」の模様をレポートします。

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「古層」の意味

中沢所長はまず、古代を研究する際には「古層」という言葉の意味を厳密に整理する必要がある、ということから話を始めます。柳田國男(1875~1962)や折口信夫(1887~1953)は常に古代について深い関心を持ち続けましたが、「古層」という概念は使いませんでした。彼らが活躍したころは考古学がまだ発展しておらず、列島の地下に膨大な縄文文化が埋もれていることは、詳しく知られていなかったのです。縄文土器や土偶が時おり出土しても、柳田が『石神問答』(1910)を書いていた当時には、それが何か詳しくわかっていませんでした。「古層」が示す、垂直に歴史地層を掘り下げるイメージを的確に使う環境は、まだ生まれていませんでした。

初期の柳田國男は、先祖がどこからやってきたのか、またどんな人達がどんな思いを抱いてこの列島に暮らしてきたのか、という日本人の起源に、強い関心を抱いていました。『石神問答』や『後狩詞記』(1909)『遠野物語』(1910)などの著書には、山野の神々や異界の伝承、石神や山人、サンカといった、歴史学の網に捉えきれない、漂泊し越境する神や人、モノの姿が語られています。しかし、これらの狩猟採集に遡源する先住者の系譜を遡っていくと、被差別の問題に触れることが危惧され、その後の探求は慎重に自粛されてしまいました。柳田はその後、沖縄に関心を寄せていきます。方言周圏説に見られるように、古い言葉や文化が辺境に残されているとして、そこに日本人の起源を探ろうとしたのです。しかし、現在考えてみれば、これは奇妙な推論を含んでいるものでした。東南アジアを含むアジア全域を俯瞰した時、日本列島こそが辺境に位置し、先住民は南方や大陸から海をわたって、この列島に入ってきたとわかってきたからです。柳田が最晩年に、沖縄学も組み入れて書いた『海上の道』(1961)は、この視点を入れてもう一度見直す必要があるでしょう。

アンガマ一方の折口信夫の最もオリジナルな研究は、芸能史でした。それは必然的に非農業民の探求に向かうことになります。三河や遠州地方を拠点に、芸能者たちが全国に散らばっていく、そのルーツとなる古代について彼は考察しました。南方から渡来したであろう列島古代人についても、弥生時代にも届くほどの推理を彼は巡らせます。しかし、これらは実証というよりは、感性に負うところが多い特異な研究として、民俗学の主流とは異なる流れを形成しました。

 

文化の堆積

民俗学において漠然として手つかずの、この「古層」の捉え方の切り口として、中沢所長は文化人類学者でもあり民俗学者でもあった、岡正雄(1898~1982)の方法を紹介します。岡は柳田國男の年若い同時代人で、雑誌『民族』(1925~1929)の編集にも参加しています。ウィーン大学に留学(1929~1935)した岡は、シュミット学派の民族学の方法を基礎に、先史・考古学、言語学、宗教学、形質人類学、神話学といった手法を合わせて、日本の基層文化を論じました。新石器文化は1万数千年~3千年前に現れてきますが、この時代に海を渡って伝播してきた何層もの文化が、日本列島には堆積していると岡は考えたのです。その第一層は、縄文中期頃に日本に流入したとする狩猟文化だと岡は記しています(日本列島の旧石器は、この当時未発見)。岡は、南方系の原住民の文化と著しく一致する遺物や習俗(土器形態や文様、土偶、土面、石斧など、また集団構造、男性秘密結社の祭りなど)を根拠に、米作りをしない文化を基層とし、その後に南方から米作りをする人たちが入ったと考えました。この南方文化圏から列島の基層を形作る最初の人々がやって来たとする説は、今日の研究からみても正しい方向といえます。このような岡の、文化を垂直に層をなしているものとして捉え考察する手法は、現代でも有効なものであると所長は説きます。

建物

 

縄文遺跡の発見

今から40年ほど前の高度経済成長期に、田中角栄(1918~1993)の列島改造論(1972)をもとにして、日本全国が土木建築の嵐にさらされ掘り返されました。皮肉なことにその過程で発見発掘が相次ぎ、列島の考古学は急速に進展します。建築業者が掘った深い土の中からおびただしい数の縄文土器や遺跡が出てきました。一万年以上にわたってこの列島に存在した文化の存在が明らかになってきたのです。特に、縄文後期の出雲から北陸、青森にかけて発達した文化の高度さには、目を見張るものがありました。

約10万年ほど前にアフリカ大陸で生まれた現人類の祖先は、様々な経路をたどりながら全世界に移動していきました。約4万年~3万年前に旧石器の文化を持ち日本列島に住んだ、最初の人類のルートについてはまだはっきりしておらず、日本における旧石器から新石器への移行についても、正確にはわからないのが現状です。それでも、近年のDNA解析では、日本人の祖先が、アンダマン諸島やチベットと同じ可能性があることがわかってきました。新石器人(縄文人)はおそらく海を通じて、南方から何回にも分かれて列島にやってきました。そして、この人びとが島をつたい、今度は北方から北海道まで移動していき、各地で縄文時代と呼ばれる大きな文化圏を形成していったのです。

 

縄文とは

貝塚

縄文時代(約1万数千年前~約3,000年前)とは、厚手の土器の縄文様からつけられた、日本独自の新石器文化に対する命名です。狩猟採集を中心にした縄文人の営みは、完全な循環型でした。動植物と人間の世界とのあいだの境は無きに等しく、強い一体感をもったアニミズム的な宗教が存在したと考えられます。米作りをしないこの文化は、狩猟採集や漁猟(今も太地に伝わるイルカ追い込みは、縄文時代からの伝統です)を中心として、どんぐりやくるみなどの栽培もしていました。後に米作りする人たちが入ってくるまで、8~9千年間も各地域の特色を保ちながら、縄文文化は続きました。単一植物栽培(モノカルチャー)を好まず、国家を作らず、多様性を保持する彼らの生活原理のもとでは、社会の制度や神話、宗教などが、互いに矛盾しないように調和的に作られていたのです。

 

倭人の移動  

縄文人に遅れて列島にやってきたのが倭人です。倭人はもともと揚子江の河口部に居住していた海民です。半農半漁を営み、もぐりを得意とするこの人々の多くは、全身に入れ墨をしていたといいます。その海民たちが、およそ3千年前ごろに山と海に分かれて移動拡散し、海に出た人々は海上を移動して、日本列島に入り、先住の縄文人と折衝を繰り返し混血し同化して、各地の特色を組み入れた弥生型の文化を作りあげていきました。彼らは稲作の技術を身につけていました。稲作とは、春にまいた種が秋になると何百倍もの収穫をもたらし、大量の剰余分を増殖させて「資本」を生み出す技術です。そういった「利潤」経済を持つ一方で、かれらは漢民族の圧政や専制を嫌い、海の方へと脱出した逃亡民(倭人と呼ばれる)でした。半農半漁の暮らしのままやがて定住する一方で、倭人たちの中には、高い航海技術を駆使して移動を続ける人々もいました。中でも有力なグループのひとつであったアズミ族は、海沿いに移動して各地の川をさかのぼり、内陸に進出していきました。DNA研究からも、縄文人と倭人の混血は明らかで、両者の文化は列島の基層に織り込まれているといえます。

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「古層」の照準

折口信夫のいう「古代」をもう少し明確にして、「古層」という概念に置き換えることを所長は提唱します。では「古層」とはどこに設定すればよいのでしょうか。これは所長自身も今までに取り組んでいない分野として、今後大きく浮上してくる問題だと考えています。柳田のいう周辺部だけではなく、日本列島の中心でも「古層」の探求は可能であると所長は述べます。プリント下層に縄文文化があり、その上に稲作を行う弥生式の文化の層が重なるものと考え、両者のハイブリッドとして、日本文化の原型である「古層」が形成されているのではないか。この層に焦点をあてるには、自然知と人文知を総合援用して具体的に検証していく必要があります。

古い文化の層を探るのに、神道は効果的な文化装置の一つです。地域によってタイプは異なるものの、旧層(縄文系)、中層(倭人系)、新層(ヤマト系)が組み合わされた構造が日本にはあると所長は解説します。この構造は地層断面図で表現するとわかりやすくなります(図1)。縄文系と倭人系のハイブリッドをここでは「古層」として定義します。

原初の神社は現代とは全く異なり、森の中にちょっとした場所を開き祭祀をするような慎ましいものでした。平安時代までの神社は、後ろに木を持つ小さな祠を置くといった簡素さで、現在のような建築物の出現は鎌倉時代になってからだといいます。5世紀の仏教伝来から江戸時代まで、この国では神と仏が共存してきました。しかし近代になり、明治政府は神仏分離令を発し、暴力的な廃仏毀釈を推し進め、国家神道を打ちたてました。その際に古層の神も、神社の脇に追いやられていきます。そのため、現在の神社の多くは本殿よりも脇社に古いものが残っています。柳田國男も『石神問答』で、脇社に注目して石の祠を研究しました。脇社は、土地の神々を祀っているところも多く、文化の「古層」が露出しています。その典型的な例として、諏訪神社を、所長は取り上げます。

 

諏訪の「古層」

眉月湖

考古学者たちが「富士眉月弧(ふじまゆづきこ)」と呼ぶ(図2)のグレーの部分の地帯では、今から5千年から6千年前、高度な発達を遂げた縄文式文化が栄えました。その西の端に位置する諏訪湖の水位は、縄文中期には今よりはるかに高かったと想定されており、古代の湖岸線に沿って多くの縄文遺跡が確認できます。

縄文末期に、気候変動の影響で縄文村が人口減少し衰退し始めた頃、諏訪にも倭人が進出してきたと考えられています。倭人系海洋民族のなかでもとりわけ海人性の強い「アズミ」は、先述したように、漁業や海上交通を得意とする人たちでした。信州安曇野に入ったグループも、日本海側から中央地溝帯に沿って姫川をさかのぼり、そこに理想の地を見出し定住した人びとだと推測できます。やがて塩尻峠を超えて諏訪湖北岸まで彼らが進出した時、寒冷化の影響ですでに有力な縄文村は少なくなっており、アズミはそこに生活拠点を作ることができました。彼らは諏訪湖につきだした二つの舌状台地に、祖先神ヤサカトメを分祀しました。

同じ頃に、いまの上伊那地方には美濃の方面から移動してきた別の弥生系集団が定着し始めていました。彼らは「イズモ」と自称し、先祖神タケミナカタノトミを祀ります。イズモ系集団は、武器の技術や人の数で先住の縄文勢力に勝っており、諏訪湖南岸の政治権力を掌握していきました。のちにタケミナカタトミ神はヤサカトメ神と男女の対の神に組織され諏訪明神をかたちづくっていきました。(このあたりの詳細は、現在『週刊現代』にて連載中の中沢新一「アースダイバー神社編:諏訪」をご参照下さい。)

 

「古層」の探求

沖縄探訪

このように古代への大きな俯瞰と直感を研ぎ澄まし、その上で自然知と人文知を援用し、実証を重ねていくことによって、「古層」を明らかにすることは可能なのではないかと所長は考えています。この方法によって、かつて岡正雄が示した考えを確かめ、柳田國男の『海上の道』が何をテーマにしていたのかを検証し、折口信夫が明らかにしようとしていた地点に接近していくことができるのではないでしょうか。私たちの文化の最古層に新たな道が開けるのではないかという期待にふくらみながら、「古層」探索の可能性を示した講義は盛況のうちに締めくくられました。

 

次回は、7月1日に行われた、岩野卓司先生による講義「石原莞爾から宮沢賢治へ —古層をめぐって」の模様をお届けします。

 

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