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第1回京都こころ会議(3):総合討論レポート

2016/02/12

2015年9月13日、京都ホテルオークラで開催された第1回「京都こころ会議シンポジウム」。今回は、シンポジウムの最後に行われた総合討論の模様をレポートします。

 

総合討論:河合俊雄先生、広井良典先生、下條信輔先生、山極寿一先生

こころの古層から言葉とアニミズムへ、そして社会へ

中沢所長は、ゴリラのような類人猿のこころの古層は、ユング的な心理学の古層よりも古いと考えており、改めて後者の位置をユング研究を専門としている河合さんに問いました。河合さん曰くユング的な実践や日本的な修行は、実際のものや自然にも繋がっており、一方でユングの理論は、広井さんの言う「こころのビッグバン」やシャーマニズムで成立した頃の古層に通ずるものであると考えています。中沢所長は、スティーブン・ミズンの『歌うネアンデルタール』にあるシャーマニズム(本質的にはアニミズム)は、「対称性」(人間とものとの間の深い繋がり)を認識する能力であり、人間はいまだにこれを活用していると述べます。

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山極さんは、アニミズムのような流動的認知ができたのは言葉の成立以降であるといいます。互換的構成要素として発達してきた別々な物的知性・道具的知性が言葉によって繋ぎ合わされ、アニミズムや社会的知性へと変換されてきたのです。同時に、言葉には音楽的な情動表現と記号的な概略的記述とがあり、後者の発達に伴いアニミズム(発達の初期段階)は消えていきます。

 

環境編成の加速と人類進化の可能性

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人間のニッチ構築は社会的な環境構築にまで到達すると山極さんはいいます。脱自然により社会の価値が高まると、人間の性質の再編成と変動は加速するのでしょうか? 下條さん曰く、人間は環境を変える能力を極端に持っており、ニッチ構築に関しては加速化する傾向が強いです。そこから超人類を仮定すれば、脳の可塑性の限界の突破が考えられます。今の脳は遺伝的に、神経伝達物質によって可塑性の臨界期が訪れます。しかし臨界期のON・OFFは、神経伝達物質による制御に関係すると判明してきており、突然変異でその臨界期から解放された人間は、もはや超人類であると言えるでしょう。

人類の様々な転機も加速化が見られると、広井さんは述べます。ホモ・サピエンスは20万年前、こころのビッグバンは5万年前、農耕は1万年前、世界宗教等の枢軸時代が2500年前、そしてこの300年から特に100年で人類の共同体は急速に拡大しています。超人類は、必ずしもSF的妄想ではないのではないでしょうか。

 

グローバル経済的運動とナショナリズムの対立、抑圧されるローカリティ

山極さんは、1970年代までは共同体同士の対立が解消され、地球が一つの家族のようにまとまって宇宙のような新しい環境を目指すと思われていましたが、結局のところそれは実現していないといいます。むしろ民族紛争や宗教の内部対立等の小競り合いが増え、イスラム世界でさえ複雑な対立が勃興している。換言すれば、イスラムの強い排除力は、バーチャリティ(想像力や言葉等)という弱さではなく、休日に皆が教会に行って神に祈る等、対面交渉での同調に基づくのです。それが現代に際立ってきたのは、教会の小さな共同体の存在感が増大し、それが逆説的に、広大な共同体を作れるという幻想へと代わって現れたためなのでしょう。

中沢所長曰く、貨幣はアラーを中心とした教会(モスク)の中の礼拝様式に相当し、ある意味でイスラム教は、グローバリズムとよく似た運動を展開しています。かつてのキリスト教やイスラム教が行っていた国際化は、今はグローバル経済が行っていますが、グローバリズムとナショナリズムは背中合わせです。一方では新自由主義を進めて労働者を派遣労働者のように流動化させ、同時に選挙の勝利や現実的問題によってナショナリズムを掲げる今の日本政府は、現代世界の矛盾の典型と言えます。そのグローバリズムとナショナリズムの間で、ローカリティは危機にあると言えます。

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情動の面では、超人類のようなものの出現の可能性はないと下條さんはいいます。社会心理学での内部集団(イングループ)と外部集団(アウトグループ)という区別は、同じコインの表裏です。愛のホルモンでもあるオキシトシンは、外部集団に対して攻撃行動を高めるというデータがあります。

 

性という外部志向

広井さん曰く、確かに情緒的に強いのは内側に向かう結束の方です。ただ、人間は共同性(集団内の繋がり)と公共性(集団外への繋がり)も均等に併せ持っています。山極さんは、「食」はいまだに文化を切る基準ですが、「性」は文化を渡り歩く特徴といいます。「あの連中はこんなものを食う連中だ」という基準は、今でも置かれている差別にして境界です。ただしナチスのような時代でも、やはり「性」は隔離できず流れていくため、人間は種分化できませんでした。生殖的に地域ごとに隔離されていたネアンデルタールやその前の人類までと違い、ホモ・サピエンスは移動力が増した上に多産であり獣姦さえすることから、性に関して大らかで旺盛であることが裏付けられています。

中沢所長は、オイディプス王など神話の大半が近親相姦(incest)に関わっていることを挙げます。つまり、実際の近親相姦の有無はさておき、近親相姦は人間の根源的欲望にセットされており、人間はそれを強烈に禁じてもいます。この問題は、ゴリラ等ではどうでしょうか。

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山極さん曰く、近親相姦回避の生物学的資質は、特に母親と息子の間で厳格にあります。例えばサルは、幼児期に異性から密接なケアを受けると、性成熟した時にその異性との交尾を血縁が無くても避けます。エドワード・ウェスターマークの人類学でもそのようなことが指摘されています。もしそこで集団が小さくて自分の近親者しかいなければ、否応なくその集団を出ていきます。個体を集団外へ押し出す要因にもなっているのです。しかし人間の場合は、親近性と新奇性が共に性的誘惑へと繋がり得ます。それを人間社会に制度化したのが、レヴィ=ストロースの言う交換のシステムと、そこにおけるインセスト、タブーなのでしょう。

 

閉鎖かつ開放

河合さんの話で興味深いのは、閉鎖が逆説的に開放であることだと中沢所長はいいます。いわゆる座禅の極意では、こう言われます。「まず自分のこころを閉じなさい。閉じると開いていきます」。すなわち、こころが非人間的な領域(無意識や「もの」や自然、または超越)へと開かれるには、人間的な社会性を閉じなければなりません。

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河合さん曰く、場合によって開閉(オープンとクローズド)の逆説が機能するかしないかの違いがあります。原理的には(少なくとも人間に)無限の繋がりが存在する中で、若い中高生等は、凄く小さくて人工的な、どこにも届かないカースト的集団を作っています。開閉の逆説が働く場合と働かない場合との違いは考えるべきです。

下條さんはこう概括します。原始的には「こころ」はオープンであり、そこからクローズドになって「個」が確立し心理療法が成立して、同時に箱庭療法のような繋がりを求める方法も現れました。そこで疑問なのは、今インターネット社会になってオープンになっていながら、元の「自然」へ戻ってはおらず、心理療法が特に若い世代で一層求められていることです。何が違うのでしょう? 河合さんは現代を、一見すると非常に普遍宗教の世界観に近いものの、かつての具体的な生(ナマ)の共同体やその宗教性とは複雑に異なっていると述べます。

 

閉鎖内で変わる生物的無限、外に展開する資本的無限

中沢所長は、世界の有機的に閉じる構成原理として、「黄金比」(golden ration)を挙げます。黄金比はフィボナッチ数列の2、3、5、8という増加に従いますが、植物の葉や花弁の出方は黄金比が入ると、空間的に閉じていきます。

これとは別に、足し算のような無限の広がりもあります。例えば貨幣は原理的に加算性で、無限増殖できます。「capital」は明治時代に「資本」と翻訳されましたが、この訳は増殖を表しています。資という字は「次」の「貝」、つまり、貨幣≒貝を投資して次の貝が増える過程を表しています(capitalの語源はcap「頭」であり、投資で増える資金capがcapitalになりました)。

実は有機側には、資本と似て非なる語があります。「富」です。「富」は家の中に酒壺があるという意味で、つまり囲まれた発酵物という概念であり、ウェーバーのcapitalならぬスミスのwealthです。富は閉鎖内で変性するものであり、家の中で微生物が変性させるもの、河合さんが挙げていた例のように、フラスコの中で錬金術が金に変容させるものです。逆に資本は「死んだ貝」であり、いくら増やしても富(生命)は増殖しません。

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つまり、有機的作用は黄金比のように世界を閉じつつ変容(増殖)させる一方、資本主義は命無き貝のように資本を集積し、無限に世界を拡大させます。前者は実無限(あるまとまりとしての無限)であり、後者は加算性無限です。この違いは、閉じるか開くかの問題に繋がるでしょう。

 

資本の超越性と生の一体性を兼ねる共同体

山極さんは、河合さんの話した過去と現代(ネット)との違いを挙げます。昔は「魂」の在り処として個人を誘引する宗教的象徴があり、そこに共同体がありました。そして近代で個人の独立が進み、新たにネット社会に移りましたが、そこでは個人が繋がるツールはあっても求心力が存在しないため、独立していない個人が散在しています。LINE的閉鎖性に進むネットから逃げられない以上、その利点を活用せねばなりません。何があり得るでしょうか?

広井さんはそれに関して、若い世代に二つの方向性を見ています。一つは、世代や都市を越えた緩い繋がりで、これは社会と共に成熟してきています。もう一つは、現実的な場所や身体への繋がりです。例えば、徳島県の神山町ではネットが利用され若者が集まり、地域が活性化しています。また、発酵/腐敗に関連して、『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』(2013年)という、移住してパン職人を始めた若い夫婦の話があります。夫曰く「世の中のものは全て何でも腐る。腐るのが当たり前で、だけど世の中に一つだけ腐らないものがある。それがお金、貨幣だ」。むしろ今後の時代に大事なのは、腐る経済の循環だ、と。中沢所長の言う無限に拡大する腐らない資本とは別の、ローカリティから出発した方向です。

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つまり、二つの方向が必要です。一方は資本主義であり、ピラミッドで上から個人・共同体・自然と連なる超越性。他方は、個人が共同体や自然に繋がる一体性。前者は個人が展開し超越する面ばかり進んでおり、後者はともすれば閉塞するため、開きすぎた部分は閉じるという部分的「鎖国」が望ましいと要約できます。

 

まだ議論の余地は大きいですが、最後に河合さんは、単なる増殖と、豊かな宇宙を閉じる無限との違いを討論の幕引きとしました。

 

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本シンポジウムの模様が、『<こころ>はどこから来て、どこへ行くのか』(岩波書店)という一冊の本としてまとめられました。どうぞ、こちらもあわせてご覧下さい。

 

 

 

(文:鬼山暁生)

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