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公開研究会「『対称性』の扉を開く」:第1回「”Part of the Animal”としての人間」レポート

2015/12/03

2015年10月11日(日)、野生の科学研究所にて、公開研究会「『対称性』の扉を開く」の第1回目が開催されました。21世紀のはじめに大きく浮上してきた「対称性」という概念をとおして、人類学は新しく生まれ変わるのではないかという予感のもと開かれた本研究会。第1回目となる今回は、講師として岐阜大学から山口未花子先生をお呼びし、カナダのカスカという狩猟民の動物との関わりから、「対称性」についてお話いただきました。

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“Part of the Animal”としての人間/山口未花子

研究のきっかけ

山口さんは、カナダ・ユーコン準州の先住民カスカを主な調査地として研究していますが、このような研究を行うようになったのは、動物が好きだという気持ちが根底にあったからだといいます。

人類学とは、人間とは何かということを考える学問であるとよく言われますが、そのように考えた時、人間とはそもそも狩猟採集民だったという視点を持つことは重要なのではないかと山口さんは考えます。なぜなら、人間の長い歴史のなかの99.8%は、狩猟採集民として生活したものだからです。人間と自然とのあいだの初源的な関係を探るためには、このような観点が特に重要になってきます。

狩猟採集民は、大きく南方系と北方系の二つに分けられます。南方系の狩猟採集民は植物を主食としますが、北方系の狩猟採集民は動物が主な食べ物です。また、北方の狩猟採集民のなかでも動物を飼育するかしないかで分けることができ、ユーラシア大陸の先住民は動物を飼育しますが、北米ではあまり行われません。野生動物との関係がある方がより人間と自然との初源的な関係に近いのではないかと考え、山口さんは北米の先住民を調査地にすることにしたといいます。北米のなかでも、大群をなす動物が近くにいる先住民であれば、その動物だけを獲って生活することが可能であり、ある一種類の動物との関係が非常に濃厚となります。しかし、カスカには大群をなす動物がいなかったので、様々な動物との多様な関係がありました。これらのことをふまえ、山口さんはカスカを調査地として人間と動物との関係を探っていくことにしました。

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カスカの人びと・生活・自然

カスカは、カナダ・ユーコン準州に位置しています。カスカの人びとは、自分たちの民族集団と話す言語の分類が一致しており、文化領域は北アサパスカン文化に属しているとされています。伝統的な施業は狩猟採集でしたが、1800年代から海外からの移民を通じて物の流入が始まります。とはいえ、これは他の先住民に比べると遅いということができ、カスカには比較的最近まで伝統的な狩猟採集文化が残っていたようです。1900年代になると、ゴールドラッシュの影響もあり、カスカへの人の流入も盛んになりました。第二次世界対戦時にアメリカ軍によってハイウェイや飛行場が建設されたことでカスカは都市部とつながり、急速な近代化をとげていくこととなります。

山口さんが調査に入ったのは、ワトソンレイクという人口が1200人ほどのコミュニティでした。人口のうち半分が原住民で、残りの半分がヨーロッパ系の移民です。キリスト教を受容していますが、そのまま受け入れているのではなく、キリストを何か大きなスピリットのひとつとして解釈していたり、聖書をお守りとして考えたり、賛美歌で動物の守護霊を呼んだりするなど、自分たちなりの解釈をしているようです。

平均年収がカナダの平均の半分ほどであるにも関わらず、物価は都市部の倍にもなるという困難な生活状況のなかで、カスカの人びとにとって大きな役割を果たしているのが、狩猟採集活動です。そのなかでも動物資源の利用が非常に重要であり、ヘラジカという動物が一番人気です。ヘラジカを二頭ほど獲ることができれば、一年は暮らしていけるといいます。他にも、オオカミやテン、ウサギやビーバーなど様々な動物を獲って生活しています。

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カスカの人びとと動物との関係

このような生活のなかで、カスカの人びとは動物とどのような関係を築いているのでしょうか。山口さんはまず、彼らの動物にたいする敬意について指摘します。そのような行為のひとつとして挙げられるのが、「正しく食べて使い切る」という行為です。たとえばビーバーであれば、彼らは手や足、尻尾まで食べ、ヘラジカは鼻の先まで食べます。食べきれない肉は燻製をして保存したり、脂や皮、骨などは加工して日常生活に用いたりします。

同時に、カスカの社会には獲れた肉や皮などについての贈与や分配の規範も存在します。たとえば、「古老にたいしては、獲れたものを必ずあげるものだ」という考え方が広く浸透しています。古老だけでなく、家族や友人のあいだでも物のやりとりは盛んですが、それらのほとんどは、「ブッシュ」(人間が入っていない自然)由来のものだと山口さんは言います。また、加工していない自然資源に関してお金を介してやりとりすることは、タブーであるとされています。

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贈与や分配だけでなく、儀礼の面でも規範は存在しています。動物への祈りを行うほかにも、たとえばヘラジカ猟で獲物が捕れた時には、狩猟者は森の木の枝にヘラジカの器官をぶらさげます。彼らは、器官とは「ウィンドパイプ」であるととらえています。ライフルで撃たれた後も、ヘラジカのスピリットは器官のなかに宿っており、器官を木に掲げていれば風が器官のなかを通り、そのスピリットは息を吹き返し、肉や皮をつけてまたこの世に戻ってくると考えるのです。他にも、動物を調理する前には必ず目玉を取り出すというルールがあります。それは食べる動物全てに行わなくてはならないそうです。なぜなら、カスカの人びとは、目玉は動物種の集合意識と個体意識とをつなぐツールであると考えているからです。

また、彼らは動物にたいして敬意を表するだけでなく、怖れも同時に抱いています。カスカの昔の民族誌にも、動物が持っている危険な側面を教える話がいくつも確認されています。山口さんも実際に、一緒に暮らしていた古老からいくつもの言い伝えや規範を教える物語を聞いたといいます。動物が強くて危険だから怖いというだけではなく、動物と一つになってしまうことにたいする怖れも存在しているようです。カスカには、人間と自然とがもともとは同一だったということをベースにした話が多くあるのですが、そのような話をする時の人びとの様子は、どこか怖がっているようであったと山口さんは感じました。15120312これらのことをふまえると、カスカの人びとには、動物と同一化してしまえば人間は動物の肉を食べることができなくなってしまうという危機感や、人間が人間でなくなってしまうことにたいする恐怖が根底にあるのではないかと山口さんは考えます。

そのような怖れを動物にたいして抱きながらも、カスカの人びとは積極的に自然と交渉しています。規範や儀礼を行うことで動物との互恵的な関係を築き、普段は怖れの対象であっても、動物の力と付き合っていく方法を模索しているのです。なかでも、「メディシン・アニマル」という存在はとりわけ重要であると山口さんは述べます。「メディシン・アニマル」とは、14、5歳になった子供が何も持たずに森のなかに入り、何日か暮らしたときに夢に出てくる動物の霊のことで、その動物は一生その子の守護霊になるのだといいます。一種の通過儀礼的なものをとおして、人間と動物との個人的なつながりを築いてもいるのです。

 

カスカの動物観

カスカには、あらゆる研究者によって指摘されているように、アニミズム的な世界観や、動物との初源的同一性や互恵性を示す物語が多く見られます。

1512035それに加え、これまで山口さんが示してきたカスカの人びとの具体的な生活の様子からは、彼らの社会が動物との「対称性」に支えられているということがわかってきます。動物との「対称的」な関係のなかで、かろうじてカスカは自らのアイデンティティを保っているのではないかと山口さんは考えます。“ Part of the Water ”、“ Part of the Land ”とは、ユーコンの古老の有名な教えですが、山口さんがカスカの社会をとおしてみたのは、“ Part of the Animal ”としての人間の生活でした。狩猟などをとおして実際に動物と対峙して生きてきたという長年の経験の蓄積が、このような考え方につながっているのではないかと山口さんは述べます。

 

カスカの方法で学ぶ

人間と動物との初源的同一性とは、言葉や概念をとおして学ぶものではないのではないかと山口さんは考えています。山口さんがみてきたカスカの社会のように、それは動物と実際に関わる経験のなかで築き上げられる知識であり知恵です。カスカの人びとは、動物との「対称性」を持つのは、なにも特別なことではないと言っています。動物と通じあえるということは、特別なことではない。山口さんは、このような感覚が人間と動物との関係を探る上で重要になるだろうと考えており、自らも動物との実際の関わりを通じてこれから考えを深めていきたいと述べ、講演は幕を閉じました。

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鼎談:動物たちの教える知恵/中沢所長・山口未花子・石倉敏明

山口さんの講演をふまえ、中沢所長、山口さん、今回の企画のコーディネーターである石倉敏明さんによる鼎談が行われました。

 

人類学という学問

中沢所長は、人類学が人間についての学問であるために、社会学の延長として扱われる事がこれまでしばしばあったと指摘します。そのため、人類学は人間関係の多様性として社会を理解していく学問であるとみなされ、親族分析や社会構造分析などが研究の中心となっていました。しかし、20世紀のある時期から、人類学の研究に大きな変化が起こります。“ Part of the Water ”、“ Part of the Land ”という言葉に表されるような自然と人間の文化の相互関係に着目するようになったのです。それは、同時期にエコロジー(環境学)やエソロジー(動物行動学)といった学問が発達したことと関わっているのではないかと中沢所長はみています。エコロジー、エソロジー、アンソロポロジー、これら三つの学問の発達は、これまでのように人間どうしの関係のみに着目するのではなく、その社会をとりまいている広大な自然との関係に関心を移していった結果引き起こされたものなのではないでしょうか。

石倉さんも、人類学をとりまくそのような状況に共感します。人文学で「ノンヒューマンターン」と言われるように、人類学でも最近、人間ではないものに対する関心が大きくなっています。山口さんは、動物への関心から研究の道を志ざし、いまは人間を包括する大きなヴィジョンに到達していますが、現在の人類学についてどのように考えているのか、石倉さんは質問を投げかけます。

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山口さんはそもそも、人類学という学問ありきで研究を進めてきたのではありませんでした。自分のやりたいことをすることができた学問が、たまたま人類学だったのです。そのなかで最近では、人類学の研究をおこなう研究者自身のスタンスが問いなおされているのではないかと言います。自分が研究対象のなかに飛び込んでいくことを表に出していくスタイルが、以前よりも強まっているのではないでしょうか。研究会での研究発表のレベルを超えて、研究者がみずから学んできた事をうまく表現するやり方を模索しているように思えると山口さんは述べます。

 

フィールドワークの経験

山口さんが述べたような、自分の関心のある対象にダイレクトに飛び込んでいくという研究方法には、自分の人格を隠さないこと、さらにいうならば、人生を賭して研究するということが求められるのではないかと石倉さんは考えます。山口さん自身は、どのようなスタンスで研究を進めていたのでしょうか。

1512038山口さんは、調査に行ってフィールドワークをしている以上、ただ話を聞くというよりは、実際に自分も何かをしながら学びたいと思っていたといいます。なぜならば、理屈でというよりも実際に経験した方が、より対象にたいする理解が深まるだろうと考えていたからです。山口さんは、カスカで現代でも狩猟を続けていた方に、弟子入りというかたちで実際の狩猟方法を学びました。そのなかでも、獲物を初めて獲ったときの喜びは、忘れられないものだったそうです。山口さんはその時、「自分がカスカ文化のなかの連続性の一員になれたような気がした」そうです。こうした経験を、ただ自分のなかに留めておくのではなく、広く社会のなかで表現していくことが人類学者の仕事なのではないかと山口さんは考えています。

中沢所長は、フィールドワークで気をつけなくてはならないのは、現地の人びとから教えをごまかされてしまうことだと言います。あらゆる部族の知識は、基本的には秘密のものであり、さらには男女のあいだでも教えは別の場合がほとんどです。世界には、超自然と動物観に関する知識は莫大にあるものの、世に明かされないままで終わるものがほとんどです。人類学は、そのようにして消えていくものとの競争であると所長は述べます。

 

芸術と人類学の接近

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所長は、人類学とは「自分をなくすための学問」であると考えています。そのような意味で、人類学はフランスでシュルレアリストたちが行っていたことに近いのではないでしょうか。シュルレアリズムの運動も、意識を持っている自分をなくす、私を解体するという試みでした。自分ではないものになっていくことに飛び込んでいくのが、人類学の研究なのではないかと所長は述べます。

石倉さんも、その点に同意します。かつて、ダカール=ジブチ調査団というグループがアフリカの奥地に入っていき、ドゴンという部族の研究を行いました。その際、シュルレアリストのミシェル・レリスが秘書兼文書係として同行しています。レリスが残した記録には、自分の自我がさらけ出され、しかもそれが解体していく様が見事に描き出されています。石倉さんは、「これまで人類学は芸術という側面を切り離してきたけれども、これからは芸術と人類学とがより接近してくるのではないか」と述べます。

中沢所長は、自分が「対称性」と言うことの意味はそれであると言います。最近盛んになっている映像人類学の手法は、まさに「対称性」をベースにしているものです。人間の知性は、概念や論理で物事をとらえながらも、グラデーションのように連続帯として変化していく世界の様相を同時に知覚しています。映像は、そのようにして人間が知覚していることをどのように表現するのかが問われているメディアです。

15120311最近では、ハーバード大学の「感覚民族誌学研究所」が、ゴープロという機械を用いて実験的な映像を製作しています。代表作の『リヴァイアサン』では、カメラは魚の眼となり、魚の目線から漁にかかって引き上げられたり苦しんだりするさまが生々しく描かれています。所長はこの映画を観たとき、映像が持っている視覚のイリュージョンは、神話と同じようなものであると実感したそうです。そしてそれこそが、所長が「対称性」という言葉でつかみだそうとした感覚でした。このような映像の知覚や、山口さんが狩人となって得た知覚など、自分をdevenir(変化)させていくことで得られる知覚は、「対称性」という考えの実践型であるだろうと述べ、所長は研究会を締めくくりました。

 

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