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第1回京都こころ会議(2):河合俊雄教授、山極壽一教授講演レポート

2016/02/10

2015年9月13日、京都ホテルオークラで、第1回「京都こころ会議シンポジウム」が開催されました。今回は、京都大学こころの未来研究センター教授・河合俊雄先生の講演「こころの歴史的内面化とインターフェイス」と、京都大学総長・山極壽一先生の講演「こころの起源―共感から倫理へ」を取り上げます。

河合俊雄先生講演「こころの歴史的内面化とインターフェイス」

河合さんは、心理療法における歴史性を挙げます。現在の心理療法は科学的な面と、逸脱を扱いこころを深める面があり、それによって土台の歴史性が出現し得ます(この歴史性とは、「過去のこころの捉え方」と現に働いている「こころの古層」)。

歴史上、オープンシステムとクローズドシステムがあります。1970年代後半~1980年代前半頃には、もはやフロイトの言うヒステリーは存在しないと言われましたが、1990年代に多重人格や解離性障害が、北米や日本でも急増しました。現代心理学はこれにクローズドシステムを当てはめ、自己内の別人格として理解しますが、前近代のオープンシステムの世界観では、霊の憑依や祟りであると考えます。例えば高山寺の逸話では、明恵上人がインドに渡って仏教を極めたがっていた時、明恵の伯父の妻である湯浅宗光が神がかりになって、インド行きを止めろと託宣しました。

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これは当時のこころが相互に広がっており、共同体が意味を共有しているためです。『宇治拾遺物語』でも、現実と夢、自己と他者が相互浸透しており、他者が見た夢によって出家する等の話があります。本来個人を超えて共同体・自然・異界にまで外へ広がっていたこころの理解は、近代にも残っています。例えば、石を大事にして隠す等少し変わっていたユングは、後にオーストラリアのアボリジニが祖先の身体・魂と呼ぶ木石「チュリンガ」を見出しました。日本人の場合は、自分の箸や茶碗を持っていて、感覚上それは「私の魂」であるので、他人に使われないよう葬式の時に割り箸を折ったり茶碗を割ったりする習慣があります。

その世界観では、「病」はあまりなく、あるのは魂の喪失や憑依といったものです。それらの治療例としては、前者はイザナミを黄泉の国に呼び戻しに行ったイザナギの話で、後者は、菅原道真や春日大明神のたたりの祓いです。その種の治療には、多くの住民が参加します。何故なら、変調や病気といった問題が属するのは個人ではなく共同体(≒自然・異界・宇宙)なので、その秩序回復をしなくてはならないからです。

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そこに「個人」という考え方ができて心理療法が成立し、外に広がっていたこころは個人の中の「無意識」として置かれました。特に精神分析ではクローズドシステムが顕著で、例えば自由連想は、他者について話す時でも時間・場所を決めてセラピストとの閉じた関係の中で、自分にとっての他者のイメージを話します。そうした内面化は西洋の長い歴史を前提として、もっと進行してきました。河合さんは、キリスト教の影響が強い三つの例を挙げます。一つ目は、一人の祈りです。『マタイによる福音書』にはこうあります。

祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

このキリスト教成立から2000年間続く内面化作業は、病気になった時に共同体で儀式をして回復を図るシャーマン的な考え方とは全く異なります。

 

二つ目は、自然界の「もの」の魂やこころに対する唯一神的な否定です。これは贖罪規定書にあります。

お前は異教の伝統を守っているか。[…]例えば諸元素、月や太陽、星の動き、朔日と月の食などを崇拝せねばならないか。お前は叫び声をあげて、お前の助力で月の輝きを回復させることができ、またそれらの諸元素がお前を助けることができると信じ、お前がそれらに対して力をもちうると信じ、家を建てたり結婚をするときにも月齢を観察しなければならないと考えているか。もしそうであるなら、すでに示した祭日に二年間の贖罪をしなければならない。

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三つ目は、「仮面」の逆転です。前近代における仮面は、日本やバリ島にあるように「神の顕現」というオープンシステムですが、ユング心理学のある近代では逆転してペルソナとなります。ペルソナは内面を隠す社会的顔であり、典型例は制服やネクタイです。内面化が進んだ頂点でこころと物体のデカルト的分離が行われ、人間にだけこころがあるという原理に落ち着きます。ラカンも「デカルトなくして精神分析なし」といいます。つまり内面化/主体化がなければ心理療法もないのです。

次に、内面化と文化差の話です。近代的に見ると、個人の境界が弱い場所もありますが、地域ごとに進度に違いがあります。内面化は西洋だけの進展でなく、例えば中国やAngela Connollyの訪れたロシアにもあります(ギリシャ聖教やグローバル化等)。

日本における内面化は、一つがミニチュア化です。例えば庭園や盆栽は、自然をそのまま小さく内面化していて、西洋ほど強烈な否定・支配は入りません。もう一つは複式夢幻能の捉え方です。もとの神事芸能が神の現れであるのに対し、これは夢を使った内面化です。3典型的には旅の僧(ワキ、脇役)が、シテ(主人公、仮面をつける役、浮世離れした者)に会って会話し、シテが実は自分は霊だと明かし、後ほど僧の夢に霊が現れて舞をする。ここにはもはや実際の神や霊の現出ではなく、ワキが外から内面(夢)を見る意識があります。

日本で箱庭療法のようなユング心理学が広まった理由は、「オープン」と「クローズド」の両面を持つ内面化が日本のそれと等しいためであると思われます。裏文化に関心のあるユングの規範は錬金術で、そこでは自然/異界に広がっていた神々はフラスコの中に内面化(抽象化・物質化)されます。まさに中沢所長の「ブリコラージュ」の世界だと河合さんはいいます。同時にユングは、結合と分離、同一性と差異性を念頭に置いていました。彼は最終的に『結合の神秘』で、無意識的なアニマとアニムスの関係を重要視しており、彼の挙げた「結婚の四位一体性」(王と女王およびアニマとアニムスの結合)は、内面での異性関係のモデルです。言わば人レベルでの関係では、こころは存在しないのです。

ここで話は一段落しますが、河合さんは少し冒険しようといいます。「内面の消失とネットワーク化」を基点に考えれば、内面性の限界と転換があるのではないか? 現代は内面の弱い、いわゆる発達障害的クライアント(患者・顧客・利用者)が増え、ユングの四モデルは通用し難い。脳科学では、今のネット社会はソーシャルブレーン化と呼ばれます。

そこで、個人の内面化の深化ではなく、インターフェース(仲介)が最近急増しているといいます。例えば日本では、前川美行さんの『心理療法における偶発事』という本は、心理療法はむしろ、偶発事により展開し得ることを書いた本です。かつてユングが第一次大戦前後に心霊現象を感じて書いた『赤の書』にも、そのモデルはあります。「聞け。私は無から説き起こそう。無は充溢と等しい。無限の中では、一杯なのは空と同じだ。無は空であり一杯である」。これは、原理的な書き方です。つまり、ユングはこころは無から立ち上がってくるのだと言うのです。

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「こころ」の歴史性を考えると、まず共同体「オープンシステム」、次に個人の内面「クローズドシステム」、そしてネットワークへと変わってきました。そこから、全てが相互浸透している華厳的こころが想定でき、その時には、新しいカオスからの分離と発生が見込めます。

最後に河合さんは、インターフェースする「こころ」の寓意として、村上春樹の『偶然の旅人』を挙げます。こころの原理的には全てが繋がっていますが、そこで繋げるところと、あえて繋げないところがとても大事なのです。仏教の華厳宗では「有力」と「無力」といいます。単に同じものを見るのではなく、意味を見出すことがとても大事なのです。

 

山極壽一先生講演「こころの起源―共感から倫理へ」

山極さんは、人間の根底の類人猿からこころを考察していきます。社会や宗教には、「他人にしてもらいたいことをせよ」という黄金律(Golden Rule)があります。他の動物も似た行動をしますが血縁社会内だけで、人間は社会道徳として寛大な行動をします。

寛容が発達した過程は、ダーウィンにとっても疑問でした。進化論から見ると、赤の他人を命がけで助ける者は、淘汰され子孫を残せません。そこでダーウィンは、道徳観念とは進化した人間に特有であり、その源は動物の社会本能であると推測しました。その理由は第一に、人間のみに見られる羞恥心や反省による赤面です。逆に言えば、皆からの賞賛への欲求が、人間社会の道徳を生み出したと考えられました。

しかし1970年代に出されたジェーン・グドールの『森の隣人』という本は、チンパンジーが感情豊かな社会生活を送っていることが示されています。また山極さんの調査では、ゴリラは見ず知らずの他者を助けます。以前アメリカの動物園で、ゴリラの居る囲いに3歳児が誤って落ちて失神しました。すると雌ゴリラのビンティがその子に歩み寄ってきたため、危険を感じた飼育員達は強烈な水ホースで妨害しましたが、ビンティは水をかいくぐって子供を抱き上げ、あやすような素振りをしながら飼育員の出入り口まで運んだといいます。つまりこのゴリラは、別種の動物の危機と、その危機から救う方法を理解し、自分の立場を弁えずにその子を助けたのでした。

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「共感」(empathy)が、実は人間以外の動物にもあることを1990年代にリッツォラッティ達は解明しました。サルの脳が他のサルの行動を見る時、それぞれ脳の同じ部分が発火していました。換言すれば、生物の脳/身体は他者と同調し得るのです。それとは別に「同情」(sympathy)は、人間社会に共通する現象とであると、文化人類学者ボームが『モラルの起源』で分析しています。「共感」と「同情」は、異なる二つの能力です。前者は「他者の気持ちを感じるこころ」ですが、後者はさらに進んだ「他者を気遣うこころ」です。そして、良心や道徳はさらに異なり、ルールを内面化し共同体の価値観に共鳴する能力です。

では、動物社会のルールの成立原因は何なのでしょうか? 10それは、「食事」と「性」における競合です。霊長類は毎日食事が必要ですが、食料には限りがあります。そして、子孫を残す欲望は誰にでもありますが、相手が必要です。

まず食事に関して。近頃の研究によると、人類の、特に社会脳の進化を推進したのは、言葉や武器よりも、食物の共有です。20世紀頃にロビン・ダンバーが調べたところ、脳の大脳皮質の割合増加は、集団の平均規模増加と連動していました。人間は直立二足歩行によって類人猿的に食物を運び、仲間達と共食します。食物運搬は、目の前に居ない仲間を思いやる行為であり、つまり共感/同情の発達ゆえなのです。重要なのは、類人猿的なコミュニケーションです。人間の脳は、約60万年前に1500ccを超えた一方、「言葉」は約5万年~15万年前と比較的近年まで存在していません。

ここで、食物から成立した人間の普遍的社会ルールを、山極さんは三つ取り上げます。一つは互酬性、つまり、贈答・交換によって相手と対等であることです。もう一つは、向社会性、相手の身になって何かしたいと思うこと。最後の一つは帰属意識、ある集団に所属している喜びです。

しかし他の重要なルール、「性」があります。相手に選ばれる必要がある異性の問題を、どうやってルール化したのでしょうか?これは、「性の所有」という問題です。雌は性皮の腫脹や尻の腫れ等の発情兆候が起きますが、系統樹で分析すると、単婚型は発情兆候のない種からのみ生じます。すなわち、単雄複雌型の種が発情のサインをなくして単婚型の人類に進化したようです。人間はペアによる「所有」で社会を作りました。人類の社会は、基本単位として家族を持っており、両性とも個人が集団間を行き来し、結婚によって複数の家族を含んだ共同体が出来上がります。

非常に重要なのは、血縁社会である家族と優劣/互酬社会である集団とを人間が組み合わせたことです。動物と違い、人間は高い共感力による思考でこの組み合わせを行い、それによって食は友好的・明示的に、性は所有的・隠蔽的へと逆転しました。複数の家族で共同体を組むことになって、「性」は家族の中に閉じ込められたのです。

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つまり家族の成立とは、複数の論理が混在する集団における、性の平等の保障なのです。性の所有は、集団への所属意識によって保たれます。食物と性のルールの一体化によって、集団や社会が現れ始め、最終的には不公平感を是正したい「こころ」のルールとして成立しました。言葉の登場によって集団で食物と性を共有し、うわさ話や評判によって、ルールからの逸脱を罰するようになったと見られます。よって道徳とは、上位の権威者からの押し付けではない、共同体の評価意識から上がってきたルールだと言えます。

まとめれば、現代人の成立とは肉食に発し、大脳化が家族を作り、共同保育によって共同体を作り、それを繋ぎ留める手段として音楽的コミュニケーションが取られ、それが言語として発達し、社会を支える論理となっているということです。しかし、社会のルールは外部には出て行かず、これをどうやって解決するか、どのように人間が変われるかが「こころ」の大きな課題であると言えます。

 

 

(文:鬼山暁生)

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