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第1回京都こころ会議(1):中沢所長講演「こころと歴史性」レポート

2015/12/28

2015年9月13日、京都ホテルオークラで、第1回「京都こころ会議シンポジウム」が開催されました。長時間に及んだその模様を三回に分けてとりあげます。今回は、中沢新一所長による講演「こころの構造と歴史」をレポートします。

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  中沢所長はまず「こころ」の扱い方にあたって、自然科学と広義の人文学との繋ぎ方を取り上げます。現代は人文学と自然科学とに大変な格差があり、国立大学での人文学系学部不要論さえ出ていますが、1970年代初頭は二つが非対称ではなく、大きな格差はなかったといいます。当時は、人文学自体や人間の「こころ」の問題において構造主義等の新しい思考方法が次々に出現すると同時に、自然科学では新科学「ニューサイエンス」や、分子生物学を通じた遺伝子解析が猛烈な発展期に入りました。言わば「こころ」の理解において、両学問は拮抗し競合していました。

1950年代に、自然科学は急激に拡大しました。電子顕微鏡によって脳を細胞レベルで観察できるようになり、神経細胞(ニューロン)の構造(ニューロンは節を持っており、節と節の間にある隙間「シナプス」を通して重要な働きをする)が判明し始めました。一方で人文学の方は、19世紀のロマン主義的学問と大して変わらず、研究者や思想家の思い込みのようなものが通用しており、所長は危惧を抱いていたといいます。

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しかし、人文学でも自然科学的方法として、レヴィ=ストロースやジャック・ラカン等による構造主義が現れてきました。これは、「こころ」の理解に言語学の厳密な方法を利用する考え方でした。「こころ」は言葉で作られており、その中で起きていることを理解するには言葉で外に引き出す必要があるため、言葉の理解とこころの理解はほとんど一体となっていました。

それにより、人文学は一面では科学的になったものの、言語学という方法論を出発点にしたことに対して疑問が沸き起こりました。つまり、人間の脳内に自然的・動物的レベルから切り離された言語構造があるという考え方に対してです。構造主義は、「人間の文化は言語を元にして作られており、文化は自然に束縛されない」「自然の要因が入ってきても、それとは違う文化的構築を自由に作れる」という考え方が土台にあります。これは都市や経済学に喩えられます。都市という内側の世界は、なるべく自然という外側からの影響力をシャットアウトし、内側だけで合理性(言語学的ロゴス)通りに世界を文化的に創造しようとします。経済学では、経済現象とはこころの中の交換の合理性で動いていくと理解されます。それに対する人間の自然的・動物的要素は、文化の外に表れるということになります。現代の人文系の学問は、おおむねこの構造を取ってきました。

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ところが、現実世界はそうではないと中沢所長は述べます。人間が交換・生産・消費する文化的世界は、外の自然という大きな「外部要因」に囲まれています。ある意味で人文学は、自然科学を横目に自身を完璧に作り上げようとしつつも、自然を扱う科学の成果や方法を切り落としてきました。

例えば、言語には「声」という生物的な層があります。人が耳にする声は音波の波動ですが、耳はその一部を音素(言語的に有意味な音)として聞き取り、脳の中で再構成すると言語が出てくる。この言語という現実に従って私たちは思考し行動するわけです。さらに下のレベルでは、音を調節する喉の奥の筋肉、そして声を発する元である内臓があります。言語という文化的構築物は、内臓や無意識といった「自然」に繋がっている言語現象の、表面的な一部分です。つまり文化的現象は、自然の過程と不可分なのです。 そこで、当時から分離があった、自然・ものを理解する自然科学と、観念・こころを理解する人文科学とを統一すること、すなわち人間についての正しい理解を得ることが主題となります。

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人間の思考力(ロゴス)や発明、テクノロジーの革新は全て、地球の進化の中で生まれた脳という「自然過程」に基づいています。自然科学によれば、ニューロンの中で電位変化・イオンの出し入れが行われ、シナプスへ伝達物質が出る。その物質過程が、宗教や科学文明の世界をつくり出しました(よそからの「知性」が霊長類に宿って人類が進化した、といった考え方は取られません)。おおもとである統一的な進化の過程を正せば、ものとこころは統一体として地球上で活動しています。観念的思考も神のような考え方も自然の自己生成であり、よってものとこころの過程を統一的に理解できるメカニズムが存在するに違いないといいます。

もの(脳)の活動がなければこころは生まれず、ものと「こころ」の分離は、実は私たちのイリュージョンに過ぎません。とはいえ「こころ」には、脳活動に単純に還元できない複雑さがあります。

1512285 いま「こころ」の理解には、大きく二つの方法があります。一つは、ニューロ系(神経過程)です。現在では、ニューロ(神経)科学および脳科学・分子生物科学・電子顕微鏡等によって、感情や思考が起きるときのシナプスの働きが精密に判明しています。かつてフロイトやユングの精神分析学が無意識・一次過程・抑圧といった概念で扱ってきた問題は、ニューロ科学により脳の物質過程として捉えられています。

例えば、うつ病は物質過程であるため、物質である薬物を適切に注入することで治療されます。これは大きな変化であると同時に、こころを扱う人文学にとっては大変な挑戦です。今まで人文学は、様々な概念を用いて抑うつを理解しようとしてきました。しかし脳の過程が科学によって解明されていくと、人文学は意味をなくしてしまうのではないかという声も最近挙がっています。特にアメリカの精神医学では、フロイトやラカンの権威は失墜しており、精神科の治療法は患者をソファに座らせたり、箱庭で遊ばせたりしなくなり始めています。

しかし、こころの全てを物質過程(ニューロ系)へと還元はできません。すなわち「こころ系」が存在しており、それが「こころの未来研究センター」の存在する理由です。それによって初めて人文学は、21世紀の自然科学を相手に、科学性と強固さをもって立ち向かえるであろうと中沢所長は考えます。では、ニューロ系と「こころ系」における類同と差異は何なのでしょうか?

まず、ニューロ系と「こころ系」を同じく動かしている原理として、「ブリコラージュ」(bricolage)が取り上げられます。これはレヴィ=ストロースが『野生の思考』の第1章で用いた、有名な言葉です。その意味は、人間は自然の知性によりガラクタを集めて新しいものを作り修繕する、ということです。フランス語のブリコラージュには、日曜大工やものの修繕といった意味があり、これが知性の働きの第一原理だということをレヴィ=ストロースは明らかにしました。

器用人(ブリコルール)は多種多様の仕事をすることができる。しかしながらエンジニアとはちがって、仕事の一つ一つについて計画に即して考案され購入された材料や器具がなければ手を下せぬということはない。(中略)器用人の用いる資材集合は、単に資材性〔潜在的有用性〕のみによって定義される(『野生の思考』)

1512286 例えば、何かの実験をするとき、エンジニアは高い予算や器具を必要とします。対して器用人(ブリラージュをする人)は、棚を修繕するときに要らない板きれを集めて作ります。これが、現在のエンジニアと、未開・古代社会の器用人の大きな違いです。実際、未開・古代の神話には新しい材料はありません。どこかで語られた神話のテーマが集められ、別のやり方で構築され直して、新しい神話または世界が作られています(現代の小説、映画、デザイン等でもそれは行われています)。ブリコラージュには技術が必要ですが、素材は出来合いです。これは、近代資本主義の発達する200年前まで人間が世界を作り上げてきた原理です。

このブリコラージュという言葉が、最近の神経科学、さらには生物学でも使われています。すなわち、非常に単純な生物から脳の構造は始まり、アメフラシ、ラット、チンパンジー、ゴリラ、人間などへと進化していきますが、脳に新しい道具がセットされた訳ではありません。全て生物は、脳の中の出来合いの素材(進化した先から見るとガラクタのようなもの)を組み合わせて新しい組織体・回路を作ります。現代の生物学者スクワイアとカンデルは、フランスのジャコブを参照しながらこう言っています。

実際に記憶に関する生化学の研究から、生物学の一般な原理が明らかにされている。進化は、新たな特定の機能を生み出すために、新しい特別な分子を創造するのではない。むしろ、分子生物学者のフランソワ・ジャコブが指摘しているように、進化は不器用な修繕屋(ブリコルール)であり、手持ちの遺伝子を、その時々でわずかに違った様式で繰り返し再利用しているだけである。人間がコンピューターや車を再設計するときに、新しい様式を創造するために、古道具から出発することはしない。一方、進化は変異を創出することや、遺伝子構造に無作為な変化(突然変異)を起こしたり、あるタンパク質に、わずかに違った変異を起こすことによって仕事をさせている(『記憶のしくみ』)

つまり、ブリコラージュの原理は脳だけでなく遺伝子のレベルにもあるのです。文化の創造は、この十数万年間、ブリコラージュに基づいていました。これは自然と文化、ものとこころを繋ぐ統一的理解の環となっているのです。

1512287 この見通しを20世紀に展開した思想家が二人います。一人は先ほどのレヴィ=ストロースで、もう一人は経済学者ハイエクです。その着想は彼が学生だった1930~40年代で、神経科学が未発達な電子顕微鏡以前の時代、スペインの医師ラモン・イ・カハールなどがニューロンの複雑な構造を解明し出した頃です。ハイエクは当時の神経科学の知見を使って、脳の神経過程と社会・法律・自由を統一的に理解する方法を探ろうと、『感覚秩序』を著しました。これは難解すぎるためあまり読まれてきませんでしたが、その重要性はこれからますます輝きを帯びてくるものです。

ハイエクはこう考えました。ニューロ系である脳を神経科学が観察すると、イオンの運動や電位、シナプスでの伝達物質の放出の過程しか観察されない。そこには質も意味もありません。しかし、神経組織を持ったあらゆる生物はそこに世界の質や意味を見出すのです。

ものとこころの二つの繋がりを考えるために彼が利用したのは、ゲシュタルト心理学における「アイソモルフィズム」(同型)です。それは、ある現象と、それとは違うレベルが同じ型を示すなら、この二つは深い相互関与があるという考え方です。つまり彼は、社会や経済的交換を作り出す原理(ロゴス)と、感覚秩序を作り出す感覚ニューロンの物質過程とは同じ型であることを明らかにしました。端的な例として、私たちの目があります。視神経は対象を見たとき、まず脳以前に視神経で情報処理を行います。明暗や色彩を分類し、対象の質に関する情報をそぎ落とし、秩序の構造が作り上げられた情報だけ脳に送り、脳はその情報を基に現実を構成します。 その構成法とニューロンの物質過程が同じ型(アイソモルフィズム)であることを、彼は見出そうとしました。

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電気信号がニューロンの中を走っていく際の同じ型を、当時の神経生理学で発火パターンといいます(脳を走る電位は、コンピューターと同じようにオール・オア・ナッシング、1か0で動いて変化を起こすと当時は思われていました)。例えば生物が対象を見たときに、感覚ニューロンから運動ニューロンまで電気信号が走って行きますが、その発火パターンと、それを基にして作られる感覚または質の秩序が、同じ型を示しているという理解によって、ハイエクは物質過程と生命過程とを結びつけようとしました。すなわち、感覚器官を通じて外界を観察するとき、視神経を通じて電位の変化が送られてきます。この物質過程には、パターンがあります。このパターンと、甘い・辛い・しょっぱい・暗い・明るい等のように言語コード化できるパターンとが、同じ構造を示している。こう考えると、私たちの神経組織から文化・社会・経済組織までが、重層的に変化していく同型の構造の組み合わせであろうというのが、ハイエクの考え方でした。当時としては、大変先を行った研究です。

1512283 実は、シナプスでは、オール・オア・ナッシングの過程は行われず、物質の量を連続的に変化させる過程が行われます。ですから神経組織は、コンピューターと同じようにオール・オア・ナッシングで動く部分と、グラデーションを持って変化していく部分との、二つの結合体で作られています。この過程については、現在では大変詳細に解明されています。これは「シナプスの可塑性」と呼ばれるもので、イオンを出し入れして電位を変化させ、電位を興奮性で増強あるいは抑制させます。可塑性によってニューロンは思考を行っているわけです。

重要なのは、ニューロ系が行う認識の過程に、同じ発火パターンの繰り返しを無視する傾向が明らかになったことです。自然科学で「順化」といい、神経組織の「慣れ」を表すこの傾向においては、「同じパターンの反復は無視せよ」という信号が出て、ニューロンを興奮させない物質が出ます。実はこの働きによって、感覚の中にカテゴリーが作られます。これは哲学でいうカテゴリーと同じで、すなわち、似たものを集めた一つの集団です。似ている発火パターンを一つのカテゴリーにまとめてしまって無視するという、分類過程が形成されるのです。

目や耳の過程も、この分類をニューロンが行っています。これによって外界の感覚は、一定のパターンを持ったカテゴリーに分類されます。この分類は、ニューロンが自分で行っています。つまり、脳を必要としていないのです。 ここで極めて重要なことは、この世界を最初に分類する目や耳が、ある同じパターンを認識して、それをゼロとして認識しない形で一つのカテゴリーをまとめ上げているということです。別の発火パターンが現れたら、それは新しい別のカテゴリーにまとめられます。 これは「こころ系」の分類過程と同型です。同じものを無視・ゼロにすることは、記憶の出発点なのです。

有名なアメフラシの実験があります。アメフラシの体をちくちく針で刺すと、最初アメフラシは驚きます。しかし、何べんも繰り返すと、アメフラシはそれを無視するようになります。すなわち、最初は自分の指令系に来た発火パターンに反応しますが、何度も同じパターンの繰り返しをされると、順化を行うのです(無視して慣れる)。それはつまり、記憶したということです。これが、生物の記憶の出発点である忘却です。

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次は人間の「こころ系」です。「こころ」はメタファーとメトニミーで動いており、世界の一個一個を細かく分類したりしません。例えばある人については、これは何々という名前の女性であるという一括りの理解をします―または、何かに似ているという理解をします。最近の認知科学によれば、言語の80%以上は比喩で成立しています。数学ですら同様だと判明してきています。

「こころ」は比喩でできており、これは有名なフロイトの発見とも関係しています。フロイトいわく、「こころ」の原初的段階である一次過程は、異なるイメージを重ね合わすメタファーあるいはイメージをずらしていくメトニミーによって、新しい意味を発生させている。例えば、私たちは映画で帆を見たら、舟を想像できます。フロイトは、一次過程ないし無意識の中で、メトニミーやメタファーが意味を発生させており、これによって思考が可能になるのだといいます。そのため、世界を詳細な構造に仕分けておく意識が弱くなる睡眠中には、無意識の奇っ怪なメタファー的メトニミー的過程が夢の中で浮かび上がって来るのです。

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私たちの言語は、一方の軸ではこのメタファーとメトニミーを活用し、もう一方の軸ではシンタックス(統語法)を用いています。シンタックスの軸は、外界に起こっていることとほぼ同型の構造を作っています。例えば狩猟者が走るシカを見るとき、シカという同一の名称を持ったものが、一点から別の点まで移動するのが見えて、言語で「シカが走る」と表現します。名詞「シカ」と動詞「走る」の組み合わせにより、外界で起こっていることとほぼ同型の表現をしているわけです。シンタックスを用いると、現実からあまりずれない表現ができます。ましてや集団狩猟を行うとき、「右側のあそこにシカが走って行ったぞ」と言語で伝えて、ほぼ同型の現実を相手が理解しなければ、集団狩猟は不可能です。家族生活でもそうです。「あの人はいま空に舞い上がった」と言った場合には、幻想の力が働いています。幻想を肥大させ過ぎると、現実の知覚と言語表現が対応せず、狩猟民にはなれません。

言語は、統辞法を支えるシンタックスの軸と、比喩・喩のメタファーとメトニミーの軸、この二つの組み合わせで作られており、よって私たちは現実を表現すると同時に、感情や想像を表現することができます。 メタファーは、カテゴリーの重ね合わせによって同一パターンの無視と、新しい意味の創造を行います。例として「女性」と「ユリ」を挙げてみます。私たちがユリの花の何かの現実と、女性の何かの現実をミニカテゴリーとして重ね合わせるとき、「ユリのような女性」という表現が生まれます。

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これを認知の型で言えば、視神経も「こころ」も同型であり、それはニューロンの結合の様式と関係しています。前提となるのは、ラモン・イ・カハールの頃から見出されていること(ニューロ系には可塑性があり、ブリコラージュのやり方で結合様式を変化させているということ)です。 ここに一つの見通しが得られます。つまり、こころの原初的な無意識(フロイトの「第一過程」、レヴィ=ストロースの「野生の思考」)において行われるブリコラージュは、ニューロンによる自然過程との連続的パターンになっています。確かに、人間のこころのレベルと、アメフラシの神経作用のレベルは階層が違いますが、そこにアイソモルフィズムは一貫しており、しかも新しい階層は、古い素材(ニューロン)の組み合わせの変化で作られます。つまり、生命過程と思考は、ブリコラージュという同じ原理で動いているのです。

不思議なことに、これと同じことを20世紀初頭の数学が発見しています。あらゆる数学のベースに、同一原理がセットされているという考え方、ホモロジーです。ホモロジーの数学的構造とは、「Vをベクトル空間とし、Vの世界でWという方向をまったく関知できない生物が見る世界」(安藤哲哉『コホモロジー』)のことです。つまり、私たちが認識する数学の世界とは、VからW(同一パターンが繰り返されていく空間)を差しひいた集合「V/W」であるということです。

例えば、地球は球体です。その上を、飛べないし、球体の中に入ることもできない動物が動いていくとします。この動物は、球体を球体と認識せず、平面の上を動いていると思います。ところが、一周すれば元いた場所にたどり着き、動物は疑問を抱きます。これが起きる理由は、三次元の球体の上を二次元しか認識できない動物が動いているためです。私たちの世界は実は四次元ですが、人間は三次元しか知覚しません。しかし、部分的な三次元世界は全体の四次元世界と対応しているので、私たちは何かしら折り合いをつけることができます。

人間の世界も数学も、このようにして作られているというのがホモロジーです。 これは、先ほどの感覚・知覚の問題と同じです。私たちは生命体として、自分の視神経に入ってくる情報の多くを捨象していますが、こうしたホモロジーは、神経のレベルから複雑な「こころ」の思考レベルまで動いています。原始的なアメフラシにあるような神経組織の場合、同じ知覚は無視してゼロ空間と見なします。複雑なメタファーの場合、違うもの同士の同じ部分を重ね合わせ捨象し、そこにゼロを作り上げています。すなわち、「こころ系」とニューロ系を結んでいる原理は、ブリコラージュとは別にホモロジーがあるのです。つまり、神経から「こころ」に至るまでゼロの過程・ゼロの空間がベースにあるのです。

ただし、ニューロンのゼロは単純です。アメフラシの場合は、ニューロンとニューロンの間を伝達していく物質をシャットダウンし、情報はそこから先に行かなくなります。一方、高度に組織化された人間のこころの場合、私たちはゼロ空間を元にしながら世界を意味づけしています。

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例えば、近代詩の頂点といわれるロートレアモンの詩があります(「解剖台の上での、ミシンと雨傘の偶然の出会のように美しい」)。これがなぜ近代詩の頂点だと言われるかというと、メタファーの機能を全面的に展開し、裸の世界を詠っているためです。解剖台はゼロ空間です。ゼロの上(客観的な鏡のように鋭利で何も意味がない解剖台の上)に、ミシンと雨傘が偶然置かれたとき意味が発生する。こんなに美しいことはない、とこの詩は言っているのです。

美しいと認識されるのは、ミシンと雨傘の出会いが実は偶然ではないためです。両者には共通点と相違点があります。両方とも尖った先端という共通点を、ミシンは針として、雨傘は雨に向かって突き出す鉄の先端として共有しています。相違点としては、ミシンは布を突き抜けていく反面、雨傘は布で雨を防ぎます。ここにホモロジーが、すなわち、違うもの同士の間に似た部分を見つけて、二つを重ね合わそうとする思考が働いています。重ね合わされ意味が無になった部分によって、二つの異物が統一されます。これが「こころ系」の特徴です。「こころ」は、ゼロ空間を介して意味の新しい派生を促しているのです。

中沢所長は、次のようにまとめます。ニューロ系と「こころ系」は、共通の原理によって形成されています。一つはブリコラージュの原理であり、もう一つはホモロジーの原理です。 仏教では、神経組織をそなえ、意識・無意識作用を持っている存在を、「有情」と呼びます。「小我」(衆生の有為転変する自我)から「大我」(真実や自由と一体の人間の自我)まで、それらは同じメカニズムを持っています。

2500年前に仏教は、この世界を理解する根源は「空」(スニヤー)であると説きましたが、これは全てのベースがゼロであることと同じです。なお、仏教(中観派)では二つの「空」が説かれます。一つは何も生産しない「空」、言わば無。もう一つは、無限の生産力が秘められた「空」です。単純な生物が行う分類は0か1で、このゼロは前者の「空」(無)である一方、「こころ」が行う意味の増殖は、ゼロを通過していても無ではない、後者の「空」です。 つまり、ものと「こころ」を分けている境界は、ゼロが何も産み出さない「空」か、無限の意味生産を行う「空」かということです。ただし、無限の「空」を作り出す人間の「こころ」でさえも、実は自然の過程から生み出されたものです。この一貫した神経組織の原理は、新しい素材や材料を必要とせず、全部自前でできるブリコラージュです。このブリコラージュによって、人間は現代まで生きています。ですから、ものと「こころ」を統一していく新しい科学の空間を考えなければなりません。

今、ものと「こころ」は、互いが自分の位置を交換できないくらいに非対称になっていますが、根源的な原理を探ると、ある一つの知性の働きに統一されるようになります。これは、「対称性」の発見と呼ぶことができます。陽子と中性子のようにまったく違う素粒子を統一する場があって、この場の中では陽子が中性子に、中性子が陽子に入れ替わります。非対称的な二つであっても「対称性」(シンメトリー)を実現できる空間があるという考えが、20世紀の物理学の生んだダイナミックな思考でした。その思考方法は、実は構造的には、アメフラシの忘却のシステムやメタファーの思考方法と同じです。数学という言語で表現された、非対称な二項が統一される場を20世紀気物理学は得ました。いつの日かこれが、ものと「こころ」の間にも実現可能であるだろうと中沢所長は述べます。複雑な階層性がありますが、もの・ニューロ系・環境世界が、「こころ」・「こころ系」・人間と分離していない場というものが可能であろうと考えるのです。

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(講演1終了)

 

(文:鬼山暁生)

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