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第2回全国海洋教育サミット特別講演「海洋アースダイバー序説」レポート

2015/04/06

2015年1月31日(土)、東京大学弥生キャンパスで開催された第2回全国海洋教育サミット中夜祭において、中沢所長が特別講演「海洋アースダイバー序説」を行いました。昨年発表された「海洋アースダイバー  対馬編」以来の所長の関心領域でもある、日本と海との関係を追った本講演の模様をレポートします。

 

「アースダイバー」という研究手法

kaituburi

「アースダイバー」は、世界中が一面の水に覆われていたという原初の時代、カイツブリという鳥が水底に潜り、大地のもとになるわずかな泥土をようやくのことで持ってきたというアメリカ先住民の神話に着想を得た研究です。この英雄的なカイツブリの姿になぞらえて命名された「アースダイバー」という研究は、記録にも残されていない時代の日本列島の歴史と人間との関わりを探ることを大きな目的としています。所長が現在関心を寄せている「海洋アースダイバー」という試みは、これまで自然科学の領域で扱われていた海洋や地形の問題と人間の歴史や神話、つまり地理学と人類学とを新しいレベルで統一することができないだろうかということが大きな主題となっています。

 

東京アースダイバー

所長の「アースダイバー」研究は、まず東京を舞台に始まりました。東京という土地は、関東大震災や第二次世界大戦での空襲などにより、古いものの大概が壊されていました。特に東京オリンピック以後は開発が進み、地形をどんどん均して高層ビルや高速道路を建設したために、東京というのは、もとの地形や歴史などが残されていない近代都市であるだろうと思われていました。しかし、所長はそのような開発を阻んでいるものの存在に着目しました。それは、縄文・弥生の古墳地帯が由来となっている公共地や神社仏閣などの聖地と呼ばれる場所です。それらの場所を地図上にマッピングしていくと、今とは異なるある別の地形の輪郭線が現れてきます。そしてこれこそが、「縄文海進」期の日本列島の海岸線でした。

東京

所長はさらに、関東の内陸部から沿岸部にかけて広範囲に見られる和田という地名や名字に注目します。柳田國男の研究によれば、和田という地名は、ほとんどが海、さらに言えば「海民」という海の民と呼ばれていた人びとの居住地に関係するのだといいます。なぜ海民の人びとの土地に和田が多いのかというと、それは海の神が「ワダツミ」といったからです。こうした海民と呼ばれた人びとは、縄文時代から弥生時代にかけて海から川に入っていき、内陸部に入り込んでいったのだと考えられています。善福寺川・神田川沿いに多く見られる貝塚も、この海民が遺したものではないかと推測されます。このようにダイナミックに人びとが移動していた縄文・弥生時代の姿を、いまより海水面が何メートルも高かった縄文時代の地形と合わせて考えてみると、全く異なる日本の歴史というものが立ち現れてくるのではないかと中沢所長は考えています。

 

日本列島にやってきた人びと

「東京アースダイバー」の研究は、今起こっている世界の様子や、数百年という時間の単位だけを通して自分たちが生きている地球や人間の歴史というものを考えていてはいけないのだということを私たちに教えてくれます。縄文・弥生時代にまで遡って日本というものを考えたとき、巧みな航海術を持ち、海を渡って日本列島に到来、生活の拠点を内陸部に開いていった海民と呼ばれる人びとの存在が、現代の私たちの生活にまで決定的に大きなものとしてあるのではないかということが見えてきます。

それでは、この海を渡ってやってきた海民とはどのような人びとだったのでしょうか。日本列島は、面白い地形の成り立ちをしています。日本列島は、もともとユーラシア大陸の一部であり、今の日本海も、もともとは海というよりも中海でした。そこに対馬海峡ができて黒潮が入ってくるようになり、日本列島はユーラシア大陸から完全に分離されていきます。これは地球の地殻運動が生み出した地形ですが、この時代の地形のことを地質学では第四紀地質といいます。第四紀地質に入った地球上では、人類が移動を始めていました。

日本列島が属していたユーラシア大陸の東部には、もともと人類は住んでいませんでした。私たちの直接の先祖であるホモ・サピエンス・サピエンスが出現したのは、アフリカ大陸です。このアフリカ大陸から、モザンビーク、紅海を越えてイエメンの方へ大量の人類が移動していた形跡というものが確認されています。このことからわかるのは、この時期から人類は航海を行っていたのだということです。

アフリカ大陸から移動してきた人類は、イエメンからは東西に分かれて拡散していきます。東の方へ移動していった人びとは、大陸を海沿いに移動していったのだろうと推測されています。大きな河川があれば川沿いに内陸部へ入っていき、人類はどんどん東へと移動していきました。現在は水没していますが、かつてベトナムからインドネシアにかけてはスンダランドと呼ばれる大きな大陸があり、5万年〜6万年前には、人類がここまで到達していたのだろうと考えられています。このスンダランドで生活していた人びとが、この巨大大陸の水没前後から一斉に北上を始め、現在のアジア人の原型が形成されていったのです。

古代船

日本列島に最初に人類が入り込んだのは、旧石器と呼ばれる石器を用いていた人びとであるとされています。彼らが日本列島に入ってきたルートは、南からか北からかわかっていませんが、海を通じてだろうと考えられています。次に日本列島に到来したのが新石器を用いる人類、すなわち縄文人と呼ばれている人びとです。彼らもまた海を通じて日本列島に入ってきていますが、彼らは南の方からやってきたのではないかと推測されています。この人びとは現在の鹿児島から青森、北海道に至るまで移動していき、縄文時代と呼ばれている一大文化を形成していきました。

 

海民の歴史

小船越(西漕手)3

そしてその次の第三波として日本列島に入ってきた人びとが、本講演で所長が重要な存在として挙げている海民と呼ばれる人びとです。彼らは縄文人と同じく南から日本列島へやってきたのだろうと考えられていますが、長い間揚子江の河口部に住んでいたようです。揚子江の河口部に居住していた人びとは、およそ3千年前ごろから南西(山)と東北(海)に分かれて拡散したのだろうと推測されています。このうち、山の方へ移動した人びとがミャオ族などの百越(中国少数民族)と呼ばれている人たちであり、海上を移動して日本列島に入ってきた人びとが、後々倭人と名付けられた人びとでした。

倭人たちは稲作の技術を持っていました。半農半漁の暮らしを営み、縄文土器よりも装飾の少ない土器を用いていました。日本列島の西に入ってきた倭人は、先住の縄文人と急速に混血していき、次第に日本列島の全域にまで到達していきます。これが弥生時代と呼ばれる文化の始まりです。彼らのほとんどは稲作定住の生活を営んでいくのですが、高い航海技術を維持したまま移動を続けた人びともいました。彼らの一部は瀬戸内海を進み、淡路島を経由して大阪に到達しました。

海上交通に巧みであった海民たちは、日本海沿岸や太平洋沿いに勢力を拡げていきました。海民のなかでも最も有力であったグループは阿曇族だっただろうと所長は考えています。太平洋沿岸に残る熱海や渥美半島といった地名は、この阿曇族が到達していた名残だと考えられます。彼らは房総半島に到達し、川を遡ることで秩父の方まで入り込んでいったようです。

 

大阪・名古屋アースダイバー

以上のように日本にやってきた人びとの歴史をみてみると、日本文化の基底において、海がとても重要な役割を果たしているということがわかってきます。ここで大阪と名古屋のアースダイバーマップを見てみましょう。

大阪名古屋

まず大阪の方を見てみると、「縄文海進」期の大阪はほとんど水没していたということがわかります。唯一、上町台地というのが半島として湾に突き出していました。この半島には、四天王寺など聖地に属する場所が数多くあります。「縄文海進」後、上町台地の東側は次第にラグーンになっていき、稲作に適した土地になっていきました。稲作は、この辺りで初めて大規模に成功したようです。一方上町台地の西側は、島だらけでした。今でもその辺りには、堂島や姫島などの島がつく地名が多く残っています。海とそこに突き出した半島というのが、瀬戸内海を進んできた海民たちの見た大阪の姿でした。

次に名古屋を見てみましょう。名古屋も、大阪と同じように現在のほとんどの部分が水没していました。今日名古屋市の中心部といわれるところは海の底です。唯一あった陸地は、こちらも大阪と同じく半島のかたちをしていました。この岬の突端部には、現在熱田神宮があります。大阪には古市古墳群と呼ばれる古代の墓地が、「縄文海進」期の半島の付け根あたりにありますが、名古屋にも現在の大須観音のあたりに古墳群があります。海に突き出した半島に宗教施設をつくり、その背後に墓地をつくるという構造は、東京でも同じようなかたちで見ることができます。大阪から太平洋沿いに名古屋へ移動してきた海民は尾張族と呼ばれ、名古屋のおおもとを作っていきました。

以上のように、東京・大阪・名古屋という日本の大都市を切り拓いていったのは海民であるということがわかります。日本の都市の歴史を、今後は海との関係で考えていかなければならないでしょう。海を渡ってこの列島に入ってきた人びとは、混血や文化の融合を繰り返して現在の日本人と日本文化の土台を築き上げてきました。そのため、日本列島の歴史というものを海なくして考えることは、ほとんどできないのだと中沢所長は考えています。

 

新潟アースダイバー

これまで見てきた東京・大阪・名古屋といった都市は、いずれも太平洋側でした。日本列島に入ってきた海民たちは、日本海側にも勢力を伸ばしています。太平洋側では、太平洋プレートが下に潜り込んできているため海岸部の地形は隆起していますが、日本海側では逆に沈降しており、放っておくと沿岸部はどんどん侵食されていきます。このような地形の違いから、日本海側の都市は太平洋側とは異なる成り立ちをしていくこととなります。

新潟

所長によれば、日本海側の都市というのは、河川の上流から運ばれてきた土砂が河口部に堆積してできたラグーン上につくられていることが多いようです。例えば、島根や新潟の地形の成り立ちを見てみるとよくわかります。縄文・弥生時代の地図を見てみると、どちらの地域も、沿岸部にまず長い砂州ができて海を塞ぎ、その塞がれた部分がラグーンとなり土砂が堆積していくといった地形のはたらきを見ることができます。大阪の場合もそうでしたが、ラグーンというのは稲作に適した土地であるため、そこが海民たちによる稲作地帯となり、徐々に都市が形成されていきました。

 

世界に開かれたアースダイバー

このようにしてみると、アースダイバーの試みというのは、なにも日本人と日本列島に限った話ではないということがわかってきます。なぜなら、地殻プレートや海流、風の流れなどの地球をつくり上げてきた様々な自然の運動と、そこに住み、暮らしてきた人間の歴史との関係をとらえ直していくことこそ、アースダイバーの目指していることだからです。アースダイバーにおいては、自然科学がやってきた研究と人文科学がやってきた研究とが自然に結びつき、協働して世界の構造を明らかにしていくこととなります。

例えば、アメリカ北西海岸に目を向けてみましょう。カナダのバンクーバー島のあたりには、日本列島の太平洋側と同じような地形を見ることができます。バンクーバー沖には、クワキルトゥル族やヌー族などの様々な部族が住んでいました。彼らの文化には、スワィフウェとゾノクワという二つの有名な神面があります。

仮面

人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは、これら二つの面を対になるものとしてとらえました。スワイフウェの面は、目や嘴が飛び出しているといったように地面から何かが飛び出してくる運動を造形化しています。それに対してゾノクワの面は、目が窪み大きく口を開けているといった相貌で、地面のなかに深く潜り込んでいく運動を形にしています。アメリカ先住民の文化では、これらの神々は地震の起源神話に結びついています。スワイフウェの神が活動することで地震が起こり、それによって普段は山の中に潜住している恐ろしいゾノクワの神が出てくるというのです。

実は、これに対応する神話が日本にもあります。鯰と山姥を対にして考えてみますと、日本の場合は、スワイフウェに相当するのが鯰、ゾノクワに相当するのが山姥ですが、遠く太平洋を隔てながら、日本列島とアメリカ先住民のあいだに同じ思考法が働いているということがわかります。

鯰山姥

このように「アースダイバー」の試みを海を基軸にして考えてみると、研究の対象は日本列島どころか環太平洋圏、あるいはそれ以上の広範囲に渡っていくこととなり、とても壮大なものであるということが見えてきます。柳田國男、網野善彦といった先人たちの仕事を継承しながら、所長も後代にこの「海洋アースダイバー」という研究を引き継いでいきたいと抱負を述べ、講演は盛況のうちに幕を閉じました。

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