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明治大学心理臨床センター開設10周年記念行事「子どもの声を聴く -子どもたちの今と心理療法—」レポート

2014/09/30

7月26日(土)、駿河台のアカデミーホールで明治大学心理臨床センター開催10周年記念行事「子どもの声を聴く -子どもたちの今と心理療法-」が開催されました。福宮賢一学長の開会挨拶、日髙憲三理事長による祝辞、そして弘中正美初代センター長による報告「心理臨床センター10周年の歩み」に引き続き、中沢所長による特別講演「天使の心、悪魔の心」が行われました。

 

中沢新一  特別講演「天使の心、悪魔の心」

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野生の科学とは「子どもの声を聴く」ということ

野生の科学研究所というのは人間の心の中の「野生」を様々な分野から引き出して、それを研究し、現実の中に活かしていこうとする機関です。メディアや制度に飼い慣らされてしまう前の人間本来の「野性」の心、これを出発点にものごとを考えていこうとしています。そしてこの「野性」の姿を捉えるには、表題にあるように「子どもの声を聴く」ということが必要です。なぜなら子供の心こそ手つかずの「野生」そのものだからです。言葉を習得する前の子供の心は野生であり、どの人間にも普遍です。しかし一度言語を習得して社会に参入すると、社会の影響を受けるようになるのです。社会は変化していく一方、子供の心はずっと変化しない。子供の心の問題というのは、この両者の軋轢に深く関わっています。

 

アリストテレスは子供をどう見ていたか

「天使の心、悪魔の心」という表題は子供の心そのものを表しています。野性の科学研究所は人類学が中心ですから、近代以前の社会では子供はどう考えられ、どう表現されてきたか、その部分についてお話ししていきます。古代ギリシャの哲人アリストテレスは「子供に酒を飲ませてはならない」と言いました。現代社会が未成年の飲酒を禁じる理由は、「飲酒が子供の脳の発達に悪影響を与えるから」などといったものですが、アリストテレスは「子供の心は火であるから、そこに火を注いではいけない」という理由から禁じました。アリストテレスがこのように語ったのは、古代人が土・水・風・火の四元素から万物が構成されていると考えていたことに由来します。水や土は水滴になったり平らな地面になったりと固形物を志向するものですが、火は対照的に燃え盛り上昇する変幻自在の存在です。ですからこのような変幻自在の火で構成された子供の心にアルコールという火を注いでは、ますます制御不能になり危険だと考えたのです。

 

子供祭りの二分類 ー〈天使タイプ〉と〈悪魔タイプ〉

子供は大人ではないので、正確には社会の一員ではありません。しかしこの社会の一員ではないはずの子供が主役になる祭りは多く、おおよそ2つのタイプに分類できます。まず一つは〈天使タイプ〉で、例えば稚児行列がそれにあたります。お稚児さんに化粧して神のお使いとして行進させるお祭りですが、このとき一番重要なのは、子供を抱き上げたり、肩に上げたりして地面につけないということです。いわば「天使」のように空中に浮かび上げておいて行進させるのです。

天使と悪魔-1

子供のお祭りにはもう一つ、〈悪魔タイプ〉があります。一番それがよく分かる例はクリスマスです。クリスマスは今では優しいサンタのおじさんを子供が待つ風習ですが、このスタイルになったのはごく最近です。昔のヨーロッパの田舎ではこれと全く逆のことが行われていました。クリスマスの晩に家で待っているのは大人で、ナマハゲのように恐ろしい面をつけて全身を藁で覆って、ガラガラと雑音を立てる楽器を持って現れるのは子供の方でした。このように子供集団が大人からプレゼントを強奪して、自分たちの収益とするのがクリスマスでした。これはいわば、子供組(青年組)の元祖です。

 

青年組からヤンキーへ -野性の系譜-

近代化と共に新聞が誕生すると、こうした青年組の乱暴狼藉が槍玉に挙げられるようになります。青年組はよき嫁が見つかるよう取り計らい、お祭りを保全し、その共同体の伝統を守るのが役目でした。しかし往々にしてやり過ぎてしまうのが青年組で、それが排除の対象となる原因でした。とはいえそういった青年組の荒々しい文化は、実は今でもヤンキー文化にその名残を留めています。ヤンキーは早婚で、堅苦しい式辞などで退屈な成人式を襲撃し、人類の心の原初形態を見せつけます。この心の原初形態は排除されても消えず、ロックンロールや反体制運動のような形で吹き出すのです。

 

古代天使としての子供

キリスト教では近世になるまで、天使即「善」で悪魔即「悪」という単純な二元対立の設定は、あまり一般的ではありませんでした。古代では、キリスト教に限らずイスラム教でもユダヤ教でも天使はより複雑な存在でした。

ゾロアスター

ペルシャで発達した古代宗教のゾロアスター教に、最も原初的な大天使が見られます。しかし神のメッセージを伝えるこの大天使の容貌は、我々が普通想像する「天使」とはかけ離れた双頭の巨大な鳥です。ゾロアスター教では、この怪物じみた存在が「自然」と同一視されていました。つまり、朝ぼらけの清らかな空気と、光と、蒸発する太陽を見ている時、人々は「大天使が現れている」と言ったのです。

天使のもう一つのタイプに知天使(ケルビム)があります。この智慧を司る天使は宇宙創造より前に存在していたとされ、悪戯者で、人間の知性を嗤う存在でした。ユダヤ教の聖櫃を守るケルビムなど、鳥の怪物に子供の顔が付いています。こうした天使の外貌を見ただけでも、彼らが善悪二元論を遥かに超え出た存在であり、同時に子供(自然)と深く結び付いていることが分かります。

 

「アナクライズ」の笑い

近代心理学はこういった古代宗教とは異なり、実際の臨床を通して子供の天使/悪魔という二面性を発見しました。生後間もない子供の原初の微笑みを、精神分析学者のルネ・スピッツは「アナクライズ(anaclyse)」という概念で説明しています。母親の体温や乳を求めて子供が母親の体に向かっていき、そして自分の唇が母親の乳房に接触した瞬間に、笑みがこぼれる。この最初の笑いを「アナクライズの笑い」と呼びます。母親の胎内にいたときの充足感から離れると子供は不快感で泣きます。この不快感を原動力にして子供は過不足のない、母親の胎内にいた時の状態を復元しようとして、自分の欲望を母親の体に向けて行きます。その欲動が母親のクッションボードのような柔らかな体に触れて、四方に波動となって広がっていくのです。この波動を子供は笑いに変換しています。それがアナクライズの笑いです。

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象徴化による笑い

子供が習得する二つ目の笑いは、あのジークムント・フロイトによって発見されました。有名な「Fort・Da遊び(いない・いた遊び)」で発見された笑いです(「快感原則の彼岸」(1920年))。ある日フロイトが母親の外出している状態の孫を観察していると、母親が使っていた糸巻きでその子は遊び始めました。具体的には、糸巻きをベッドの下に「いない!」と言って投げ、そして糸を手繰り寄せると「いた!」と言って笑っていたのです。つまりその子は不在の母親を、1(いる)か0(いない)かというデジタル記号に変換することで不安を除去し、現実を乗り越えようとしたのです。この観察によって、フロイトは象徴発生の瞬間を捉えることに成功しました。しかしフロイトはここで洞察を止めませんでした。子供にとって母親がいない状況は辛いはずなのに、子供はわざわざその「いない・いた遊び」という苦痛体験を繰り返す[※]ことに彼は注目しました。ここからフロイトはタナトス(死の欲動)を発見します。子供は「小さな死」を記号化して喜んでいるのです。

スピッツによって発見された「アナクライズの笑い」は記号化される前の原初の笑いで、エロス的笑いです。対蹠的にフロイトの発見した笑いは記号操作による笑いで、タナトス的笑いです。子供には、この天使と悪魔の2つの笑いが混在しているといえるでしょう。

 

 

シンポジウム「子どもたちの今と心理療法」

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続くシンポジウムは三人のシンポジストによる発表からスタートしました。三者三様にとても充実した内容で、島根大学教育学部教授で臨床心理士の岩宮恵子先生は「イツメン」(いつものメンバー)とSNSの問題性について、子どもの虹研修センター研修部長で臨床心理士の増沢高先生は児童虐待の現状とその支援の問題について、精神科医の宮沢香織先生は子どもの発達を支援するために必要なサボタージュ(いわば「大人の引き際」)について、それぞれ語りました。

以上3つの発表を踏まえて展開された後半の討論では、「大人は子供からどの段階で手を引くべきか」がメインテーマの一つとなりました。前センター長の高良聖先生は「あらゆる不適応行動は適応行動である」とし、大人やセラピストによる子供への介入はある意味でみな余計なお世話とも考えられるといいます。しかし余計なお世話とは分かっていても、子供を思えばやらなければいけないおせっかいもあるはずです。要するに大人は「余計なお世話」をいつまで続けるべきか、この点がシンポジウムでは問題とされたといえます。容易には答えの出ないこの迷宮的問題に、中沢所長が講演で発した「野性」と「ヤンキー」という二つの言葉がアリアドネの糸となりました。

増沢先生は中沢所長の言葉を引き受けて概ね次のように述べました。「思春期は自分の価値を定義する年代です。しかし自分の価値を教えてくれる存在はもはや親ではなく、周りにいる少し年上のお兄ちゃん・お姉ちゃんになってきます。子どもは凡庸な大人を遠ざけます。ですので子供がそういう凡庸でない、少し野性味のある年上の人を見つけたときが、大人の引き際ではないでしょうか」。このことを臨床的見地から岩宮先生が裏付けます。岩宮先生によれば臨床で子供が話すことの多くは、コンビニの前でたむろしているようなヤンキーのお兄さんが実は「すごく深い人」だったといった類の話だそうです。奇妙なことですが、例えばヤンキーの青年が妊娠中絶させた話などが、子どもたちの口から深い話として語られるのです。社会的に秩序を守って生きているだけの大人にあまり子供は深みを感じないようで、こうした子供の野性的な感性を大事にしつつ、(度を越した場合を除き)そっと大人が見守ることが大切だと岩宮先生は語ります。

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中沢所長の講演で出た「野性」というキーワードが、後半のシンポジウムまで通奏低音として響き渡っていることを感じさせる結論が出ました。地球上の人間全員が心に抱えている「野性」、この巨大な自然のエネルギーといかに対峙していくべきかを考えることが、子どもたちの今、ひいては未来を考える営みになるのではないでしょうか。


[※] フロイトはこの「不快な経験が執拗に再帰する病的過程」を「反復強迫」と呼びました。例えば外傷性神経症(PTSD)の戦争経験者が、その後執拗な悪夢に何度も襲われるような経験は「不快を避け快を求める」快感原則からは説明できません。そのためフロイトは快感原則の向こう側(彼岸)に、エロス(生の衝動)に対置されるタナトス(死の衝動)の存在を認めたのです。

 

 

(文:後藤護、写真:野生の科学研究所)

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