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公開研究会:「可食性の人類学」第二回「目には見えない食べもの」レポート

2014/08/25

2014年7月19日(土)、野生の科学研究所にて、石倉敏明さんによる公開研究会「ホモ・エデンス  可食性の人類学」(全三回)の第二回が開催されました。今回は「目には見えない食べもの」と題し、表には明らかにされていないようなかたちで私たちの生活や身体に染み付いている食にまつわる隠された思考というものを、精神分析の領野と絡めながら解き明かしていきます。石倉さんによる研究発表を、中沢所長のコメントとあわせてレポートします。

 

「強いカニバリズム」と「弱いカニバリズム」

前回の研究発表の最後に、石倉さんはカニバリズムについて、「強いカニバリズム」と「弱いカニバリズム」という二つの捉え方があるのではないかと指摘しました。今回はまず、その二つの捉え方にどのような違いがあるのかについて詳しく確認していきます。

石倉さんによれば「強いカニバリズム」とは、人間とある実体とのあいだでのエネルギーの交換に関わるプロセスのことを指すといいます。人間が血や肉などの具体的なものを伴って実際にエネルギーを移動させていくとき、人間とそれらとのあいだには直接的なつながりが生まれています。この直接的な結びつきを伴うカニバリズムのことを、石倉さんは「強いカニバリズム」と表現します。

一方「弱いカニバリズム」とは、石倉さんによれば、人間の排泄物や屍体から食べ物が生まれてくるなどといった神話のことを指すのだといいます。実際に人間が人間を食べないとしても、人間が何かを食べるときに「これはもともとは人間の体だったのだ」という記憶をとどめているとしたら、それは広い意味でカニバリズムだということができるのではないかと石倉さんは考えます。カニバリズムという直接的な現象がお話のなかに記録され、それを私たちが共有しているとき、私たちはカニバリズムという現象を間接的に受け止めています。カニバリズムをお話のなかでのこととしているといった意味で、こうしたカニバリズムは「強いカニバリズム」に対して相対的に「弱いカニバリズム」であると捉えることができます。つまり、「弱いカニバリズム」とは「象徴的なカニバリズム」であると言い換えることができます。

 

「食」という問題の再構築

以上のようにして考えてみると、カニバリズムという現象のなかには、実際に人を食べるということと象徴的に人を食べるということの二つの次元があると明らかになります。人類学者のクロード・レヴィ=ストロースも、カニバリズムは多様な表現形態を取りうるのだと考えていました。レヴィ=ストロースは「われらみな食人種」というエッセイのなかで、「もしも他人の身体に由来する部分や物質を自らの身体のなかに取り入れるということがカニバリズムという行為であるならば、カニバリズムの概念というものはかなりありふれたものでしかない」と述べています。人間に代わるものとして動物の肉を食べるということだけにとどまらず、臓器移植などもカニバリズムとして捉えうるだろうというのです。石倉さんは、レヴィ=ストロースにとってカニバリズムとは、野蛮な行為としてではなく、社会生活やコミュニケーションの根源にあるものとして捉えられるものであったのではないだろうかといいます。

フランスでは、他にも「食べる」ということについて様々な思考が深められてきました。例えば、美食家として知られるブリア=サヴァランが挙げられます。ブリア=サヴァランは、食べるということと快楽とがどのようにつながっているのかについて探求しました。このブリア=サヴァランの探求については、後にロラン・バルトが注釈を加えています。「ブリア=サヴァランが考えたような味覚の快楽というものを考えるとき、そこでは第六番目の感覚として体感、身体の内部の感覚といったものを想定せざるをえない」とバルトは言います。すなわち、食べるという行為が舌の上だけでのことなのではなく、身体の内奥の領域とつながるものでもあると考えるのです。石倉さんは、こうした口腔的な快楽が内蔵的に拡がっていくというブリア=サヴァランやバルトの思考が、カニバリズムと同様、人間の社会的なコミュニケーション以前にある外部とのつながりといったものを示唆しているのではないかと考えます。

 

プロト・カニバリズム

このように食べるという行為が快楽と重なってくるということを確認したうえで、石倉さんはこうした構造を「プロト・カニバリズム」という概念を通して考えてみたいと提案します。エーリッヒ・ノイマンというユング派の精神分析学者が考えたように、母子関係のあいだには「最初の」カニバリズムがあるのではないかというのです。

例えば、子がへその緒や乳房を通して母の身体から直接に栄養を受け取るとき、子は「強いカニバリズム」を行っているのだと考えることができます。一方で、子が成長して乳離れした後では、子は母の身体を消費することの代わりとして母の料理を食することとなります。このとき、子は「強いカニバリズム」というものを象徴的に転換して「弱いカニバリズム」を行っているのだと考えることができます。

こうした母子関係における「強いカニバリズム」から「弱いカニバリズム」への推移の過程を、石倉さんは三つに分けて説明します。すなわち、①出生前におけるへその緒を通しての直接的な「血」の交換関係、②出生後における乳房を通しての「乳と糞便」の交換関係、すなわち、直接的に乳房から乳を得ながら母の身体の外に糞便を出すことで、想像的に交換関係というものを成り立たせている段階、③幼児期における「食事」による象徴的な交換関係、すなわち、母の身体の代わりとして料理された食べ物を食べる段階の三つです。①から③への段階へと進むにつれて、母の関与の程度は低くなっていき、逆に象徴の程度は高くなっていきます。

 

ハイヌウェレ・コンプレックス

このようにして「プロト・カニバリズム」を三つの段階として考えてみると、子による母からの離脱、つまり「母殺し」の過程といったものが重要なものとして表われてくるのではないかと石倉さんはいいます。エディプス・コンプレックスにおける「父殺し」と対置させる意味において、石倉さんはこのことを「ハイヌウェレ・コンプレックス」という概念として提示します。「プロト・カニバリズム」における「母殺し」の過程が、前回の発表で登場したハイヌウェレ神話と重なってくるのではないかと考えるのです。

「食べる主体」としての自己を確立するためには、「プロト・カニバリズム」の第三段階が必要となります。依存的な母の身体とのふれあいを棄却し、料理と食事というかたちで象徴的に転換された「母殺し」を通じて、子は未分化な流動状態にある「目には見えない食べ物」から自らの身を引き離さなければなりません。このとき、自らが行なってきた母の身体を食べるといった「プロト・カニバリズム」における第一段階、第二段階での記憶は、抑圧されていきます。こうした抑圧の過程が「母殺し」であるとするならば、「かつて、殺された女性の身体から食べ物が生成した」というハイヌウェレ神話のモチーフは、この原抑圧の記憶を保持するものとして考えられます。

石倉さんは、こうした「食べる主体」になるための象徴的な「母殺し」というものは、必ず失敗すると考えます。殺されたはずの母の身体は、失われたものとしてなお「食べる主体」を取り巻き続けます。しかし、この「母殺し」の過程を自覚し、前回確認したように「食べられる主体」として自らの可死性と有限性とを受け入れることができたとき、人は宇宙にひらかれた倫理的主体として、生と死の編み目を紡ぐことができるようになるのだと石倉さんはいいます。

 

オイディプス神話の新たなとらえ方

このような「母殺し」の過程をはじめとする何段階もの象徴化のプロセスを経て、こどもは大人へと移行していきます。あらゆる部族社会にみられる通過儀礼というものも、この象徴化のプロセスのひとつであると考えることができます。ここで、通過儀礼という観点からオイディプスの神話を考え直してみると、新たな視点が明らかになるのではないかと石倉さんは指摘します。

オイディプスの物語とは、簡潔に言ってしまえば、宿命により知らずのうちに父を殺し、生母を妻としたオイディプスが、事の真相を知って自ら両目をえぐり取り、諸国を放浪して死んだという話です。ジャン=ジョセフ・クロード・グーという思想家は、このようなオイディプスの話のなかに「母殺し」の過程が欠如しているのではないかと指摘しています。オイディプスというのは、通過儀礼として「母殺し」という根源的な象徴化のプロセスを経ることなく大人へと移行しているために、最後まで「母殺し」の記憶が導く対称性の世界といったものに目覚めることがなく、象徴が支配する世界のうちで彷徨い続け、悲劇的な結末へと導かれていったのだというのです。

 

「食べる主体」の変容

前回確認したように、私たちは「自分が食べられる存在である」という可死性を抑圧することで食という行為を成り立たせています。「プロト・カニバリズム」の三段階が説明しているのは、私たちが大人になるためには、食の根源に存在する起源的な暴力というものを目に見えないかたちに変容させる象徴化のプロセスが必要とされているということです。「母殺し」をはじめとする一連の通過儀礼を経て成立した「食べる主体」は、今度は自ら料理するもの、狩猟採集するものとして現実の死に直面していきます。このようにして自らの身に死というものを引き受けることで、「食べる主体」は再び「食べられる主体」への思考に戻っていくのです。このような「食べる主体」の変容のプロセスが、「食の倫理」というものの根幹に据えられるべきなのではないかと主張して、石倉さんは今回の研究発表を締めくくりました。

 

 

中沢所長によるコメント

sensei

 

「食べる」という行為

「食べる」ということは哲学の領域とも関わる問題ですが、これまでは主に人類学や精神分析といった分野が中心としてきました。哲学が、ハイデガーの「アレーテイア」という語が示すように、隠れた闇の中から何かが光の方に顕れてくる過程そのものを取り扱う学問であるとするならば、人類学や精神分析の領域が取り扱ってきたのは、光の中に出てくるものの背後にある闇の領域であるということができます。内蔵や無意識などといった、目には見えない領域のことを主題にした学問なのです。中沢所長は学生の頃、周りにいた哲学を勉強する友人たちから、所長の読んでいた人類学や文学の話について、「反吐が出る」というようなことを言われたことが記憶に残っているといいます。友人たちが「反吐が出る」といったのも、この違いを感じたときの身体的な反応だったのでしょう。

石倉さんが関心を持っている「食べる」ということの問題も、このような意味から、理性的なものが支配する世界の背後を探ろうとする試みであるということができます。「食べる」という行為は、「内蔵的」な行為であると所長はいいます。私たちが普段食べる料理とは、見た目にもきれいだったり香りも素敵であったりと、非常に整えられたものです。私たちは、そのように秩序だって出された料理を、箸やナイフ、フォークを使って口に入れ、咀嚼しています。あんなにきれいだった料理を、口の中でぐちゃぐちゃに破壊しているわけです。それはさらに胃袋のなかでぐちゃぐちゃになり、今度は数時間かけて別のかたちに整えられ、糞便として外へ出されることとなります。私たちは「食べる」という行為を通じ、この過程を繰り返しているのです。すると「食」というのは、闇から光へと明るみに出す「アレーテイア」の哲学とは逆のことを行っているのだということができます。

文学とはなにか

それゆえに、「食」というのは哲学として表現することは難しく、むしろ文学や精神分析学の領野に近いものであると考えられます。文学というのは、わかったはずの意味を未知の世界に引き戻す行為であると中沢所長は言います。文学の起源には悲劇性というものがありますが、悲劇性というのは、光の方から闇の方へと引き戻されるその過程のことをいいます。オイディプスの神話が悲劇の典型だと言われるのも、そのような意味からです。オイディプスは、スフィンクスの謎を解いて理性的に勝利したかのようにみえますが、近親相姦を行い自分の目を潰すといったように逆にどんどん闇の方へと向かっていきます。ギリシャ人が悲劇を好んだのは、一方で哲学が発達していたからだと中沢所長は考えます。ギリシャ人は、闇から光へと顕れさせる「アレーテイア」の哲学を発達させながら、同時に、光から闇へと向かわせる悲劇というものを保持していました。

 

食と性の哲学

中沢所長は、あらゆる古代語の「食べる」という動詞には、ものを食べるという意味と性的な意味の二つがあると言います。食と性とは深くつながっており、この二つは哲学が苦手とする領域でもあります。ところが、哲学の主題として食と性がフィーチャーされた時代がありました。それは、革命後のフランスです。

食べる

フランス革命の後、理性というものが大きな権力をもつようになりました。その理性があまりに強大になってきた時に反動的に現れてきたのが、食や性といった領域に対する関心です。石倉さんの研究発表の中にも出てきたブリア=サヴァランの研究も、マルキ・ド・サドの文学が生まれたのもこの時代です。この時代には、食や性といったものを文学の領域で哲学的に解明しようとする試みが広くなされました。こうした「文学的な哲学」がどのようなものであるのかを明らかにしようとしたのが、ロラン・バルトです。バルトが研究対象としたのは、ブリア=サヴァラン(食)、サド(性)をはじめとして、フーリエ(愛)やイグナチオ・デ・ロヨラ(瞑想)といったカオスの領域の分類法を行った人物です。彼らが行った分類法というのは、よくみてみるとナンセンスとしか言いようがないものですが、そうしたナンセンスな分類法というものを理性的な武器として携え、彼らはカオスの領域に踏み込んでいったのです。

 

情報が支配する世界

こうしたことをみてみると、石倉さんが取り上げているような食の問題も、何か大きな理性的なものに抵抗しようとする動きの表れであるように思われると所長は言います。現代においてそれは何かといえば、コンピューターです。コンピューターという理性システムは、世界のあらゆるものを情報として処理し、クラウド化しています。ある意味でいうと、世界は情報によって食べられているということができるのです。このような状況が、人間が食べられるといったような想像力をさまざまなかたちで生み出しています。食だけではなく、性もかつてないほどむき出しの様相を呈しています。現代の食と性の問題というのは、情報という闇から光へと露わにさせるような力が私たちの世界を覆いつくす一方で、それによって人間の全てが明らかにされるわけではないということを暗示しているのではないかと所長は述べ、今回の研究発表を締めくくりました。

第3回研究会(最終回)は、9月6日(土)14:00より野生の科学研究所にて開催されます。

終了後には懇親会(会費制)も予定しております。

みなさまのご参加、お待ちしております!

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